シャーマンへの道「10 心の暗黒面とフォーカシング」
暗黒龍王のことがあって、ひとつわかったことがある。
誰の心の中にも、なかったことにしたい感情や過去の経験からくる思い込みがある。
そうしたどろどろした怒りや悲しみなどのネガティブな感情は、明るく積極的で誰にでも好かれるような模範的なそれとはかけ離れているため、多くの場合心の片隅に追いやられ、私たちはあたかもそんな感情は持っていないと思い込んで生きている。
それは自分の一部でありながら、見捨てられ、切り捨てられた感情といってもいい。
しかしどんなになかったことにしても、それは自分の中に存在する。
自分の中にそんな感情があると気づいていれば、それは受け入れ、癒し、主導権は自分が持ちながら制御することが可能だ。
ところがその感情の存在に気づいていなければ制御は不可能だ。
するとどうなるか?
無意識下にいる感情は自分の存在に気づいてほしくて、そのひとの人生のシナリオに大きな影響を及ぼし始める。
具体的にいうと、なんとなく気持ちがすっきりしないとか、喜怒哀楽の感情が動かないとか、いつも同じパターンで失恋するとか、仕事がうまくいかないなどの現実を作り始める。その極端な例が戦争だ。戦争を起こしたくて仕方がない人々は無辜の庶民がそれぞれの無意識下にある慢性的な怒りや憎しみ・悲しみなどに気づかないまま生きているとき、出口を求めて噴出しようとするそうした誰もがもっているネガティブな感情を利用する。
暗黒龍王は時代の変わり目、多くの場合天変地異や戦争が起きる時に現れるというが、暗黒龍王が争いを起こすわけではない。暗黒龍王のエネルギーに刺激されて、わたしたちの中の見捨てられた自分の一部が出口をもとめて戦争を引き起こすのだ。ケアされていない無意識の暴走を許すか、気づいて、癒し、愛を選択するかは、じつはわたしたちひとりひとりにゆだねられている。
私自身について書くと、あの時、自分の心の奥底にも暗黒龍王が象徴する破壊願望があったことに気づいてしまった。
当時のわたしは二児の母親だったが、子どもの頃からの苦しさや寂しさをずっと抱えたままだった。
1回目の結婚はそうした感情を抱えたままの結婚だったので、そういう感情を刺激するような相手を選んでしまったのだ。
で、家庭生活がうまくいかず孤独だった。
どうしてあんな親の元に生まれてきてしまったのか。
こんな世界なんて壊れてしまえばいい。
当時のわたしは無意識にそう思っていた。
でも本当に壊したかったのは、心のどこかで自分が変わるしかないとわかっていながら変わる勇気がなくて、自分で自分の周りに大きな壁を作っていた自分自身だった。
暗黒龍王が現れたとき、わたしは自己欺瞞に気づいた。
だから苦しくて仕方がなかったのだ。
時間を作ってはフォーカシングをしながら、そんな自分を認めて受け入れる作業を続けた。
もちろん2,3日で癒すには心の傷は深過ぎた。
それでもようやく破壊願望の存在を認められるぐらいになった状態で暗黒龍王と対峙したのだ。
人間であれ、霊的存在であれ、表面に出ている性質だけがすべてではない。
「鬼の目にも涙」という言葉があるように、いっけん強面のやくざでも、ふとした時に困っている人を助けることだってある。
だれもが自分の中にたくさんの顔をもっていて、そのずっと奥深いところに命の源がある。
もしわたしたちひとりひとりが自分の中の見捨てられた感情に気づいて受け入れると、それまでいやだと思っていた自分のネガティブな側面を愛しいと思えるようになる。
なぜならわたしたちが見捨てられた自分の感情を取り戻すとき、わたしたちは自分の奥深くに存在する命の根源に触れるからだ。
そうなったら戦争は起こらない。
争いではなく、意識的に愛することを選択することができるようになるからだ。
覚悟を決めて暗黒龍王を受け入れたとき、龍の中にまるで合わせ鏡のように破壊願望が見えた。
それはわたし自身そのものだ。
自分自身の暗黒面を受け入れるように龍を受け入れると、その奥に命の源である愛があった。
暗黒龍王はわたしの一部として統合された。
それが何を意味しているのかわたしが理解するのはもう少し先になる。
ただひとつだけわかったのは、自分の無意識の深いところに存在する感情をちゃんと受け止めてあげることができれば、その感情は変容を起こし、自分自身のより深い部分で統合が始まるということだ。
そしてそれは目に見えないエネルギー体や神々に対しても同じだ。
暗黒龍王を受け入れることで暗黒龍王自身が変容を起こし、本来の愛あふれる姿に戻っていった。
それをみたとき、人間なら誰の心にもそんな力があって、それが静かに世界を変えるのだろうと思った。
というわけで翌日、さっそく天河について友人の神戸圭子に訊いてみると、蛇の道は蛇、さすがに圭子は詳しい。
天河というのは、奈良県と和歌山県の県境近くにある天河弁財天のことで、知る人ぞ知る有名なパワースポットなのだという。その名のとおり弁天さんを祀っており、飛鳥時代、役行者によって開山された古社だそうだ。
弁天さんといえば、ちょうど1年前の2001年1月、祖父が亡くなり、その葬儀のために北海道の実家に行ったときのことだ。
葬儀の朝、叔母に氏神様にお世話になったお礼がてらお参りに行くから一緒に行かないかと誘われてなんとはなしに一緒に行った。その氏神様は弁天さんを祀ったわたしの産土神社でもあり、一時期祖父が氏子総代を務めていたこともあって、ご縁が深い。わたしも子供の頃は境内で遊んでいたが、おとなになって東京に出てきてからはもう何十年も足を運んでいなかった。
叔母と雪道を歩きながら、真冬の北海道の空気はずいぶん久しぶりだと思った。
北海道の片田舎の町は何もかもが雪に覆われていて、色彩といえば雪をかぶった街路樹のナナカマドの赤い実くらいだ。
斎場から5分も歩いた頃、だだっ広い雪原にぽつんと産土神社のちいさな社が見えた。
真っ白く雪をかぶった社が朝日を浴びてキラキラと輝いている。
ひとっこひとりいない境内の新雪を踏みながら社の前までくると叔母が祝詞を唱え始めた。
わたしは目を開けたまま、神社にいる弁天さんに心の中で頭を下げた。
その瞬間、本殿に白銀に輝く光が現れた。
突然の出来事にわたしはまじまじと白銀に輝く光に見入った。
奇しくも祖父の葬儀の日は1月17日。わたしの39回目の誕生日だった。
そのとき以来、弁天さんはわたしの中で特別な存在になった。
目を閉じれば真っ白く輝く産土神社の弁天さんが胸の中に現れるのだ。
そんなわけで弁天さんの言う「北から南へ水を流せ」がどういう意味を持つのかはよくわからなかったが、とにかく行ってみようという気持ちになっていた。
白龍と一緒だし、導かれるままに行けばその先に何かがひらけるような気がしたのだ。
そんなこんなではじめての天河神社ということで、新幹線の切符を買ったり、いろいろ準備をしていた矢先にインフルエンザにかかってしまった。いきなり39度の熱がでて、どうにも動けない。最低限の家族の食事の用意以外はひたすら寝ていた。
熱にうなされながらも、子どもたちが学校に行って、ひとりになると気持ちが落ち込んだ。
なんでいまこのタイミングでインフルエンザに罹るのかとか、一泊とはいえ、また子どもたちをほったらかして出かけていくのは今度で何回目かなとか、取り留めもなく落ち込む自分がいる。
わたしが病気になると不機嫌になる夫をみて、こんな結婚の形が欲しかったわけじゃないと思うと悲しくなったり、そもそも弁天さんの命を感じて旅に出る自分はやっぱりへんなんじゃないのかとか、これでもかというくらいネガティブな気持ちが出てくる。
寝ている間中、その気持ちをただフォーカシングで観て、感じて、受け止める作業をしていた。
あまりに辛くて、そうする以外になかったのだ。
ようやく熱と気持ちが落ち着いてきたのは出発当日の朝だった。
(シャーマンへの道「11 天河弁財天」につづく)
2015年9月
【シャーマンへの道シリーズ】
シャーマンへの道「1 やりたいこと」
シャーマンへの道 「2 エネルギーの使い方」
シャーマンへの道「3 宮古島」
シャーマンへの道「4 ユタ」
シャーマンへの道「5 ウハルズの謎」
シャーマンへの道「6 白龍」
シャーマンへの道「7 決断」
シャーマンへの道「8 禍津神の封印」
シャーマンへの道「9 暗黒龍王」
シャーマンへの道「10 心の暗黒面とフォーカシング」
シャーマンへの道「11 天河弁財天」
シャーマンへの道「12 大神神社と土砂降りの雨」
シャーマンへの道「13 「意識を飛ばす 竹生島弁財天」
シャーマンへの道「14 六芒星起動」
シャーマンへの道「15 それ」
シャーマンへの道「16 『それ』の本当の意味」
シャーマンへの道「17 そして、神がみえなくなった」