2009年07月03日
呪縛と解放 母編
先日北海道に行ってきた。
羽田から千歳行きの最終便に乗って千歳で1泊。翌日夫の友人と会い、その足で母の住む町に向かった。
私が生まれたのは北海道のちいさな海辺の町で、5歳の頃までそこに住んでいた。生家から15分くらい歩いたところに母方の祖父の家があって、すぐうらは海だった。
幼い頃はよく海で遊んだ。家の裏手の土手をのぼると、砂浜がどこまでもひろがっている。子供たちが何人か集まっては、波をおいかけて波打ちぎわぎりぎりまでいって、波が打ち寄せてくるとあわてて逃げる。あきもせず日長一日そんなことをしていた。
8年前に祖父も他界し、いまは母がひとりでそこに住んでいる。母は男前というか、ハイカラというか、波乱万丈の人生を歩いてきたひとだった。もともと専業主婦におさまる性格ではなかったらしく、わたしが若い頃離婚して、いまは気楽なひとり暮らしだ。
そんな母だから私ともよく衝突した。若い頃の私は母が許せなかった。正確にいえば両親が許せなかった。両親に代表される自分をとりまく環境のすべてが理不尽で納得がいかなかったんだよね。だから私は学校を卒業してすぐ家をでた。
けれど家を出たからといって、根本的な親子の問題が解決されるわけじゃない。母とは何度もぶつかり、心にたまっていた思いのすべてをぶつけて、つかみ合いの大喧嘩をしたこともあった。
そうした母とのやり取りの一方で、二十代の私はひたすら自分の心を見つめつづけた。「生きることが苦しい」、そう子供の頃から感じ続けていたのはなぜだろう、と。
やがて自分の気持ちをじっと見つめているうちに浮かび上がってきたのは、「親の役に立たない自分は価値がない。自分の気持ちを殺してでも親の心の安定を守れ。それができないなら存在するな、生きるな」という深層心理レベルでの刷り込みだった。
じつはそれは母自身が幼少のころから感じてきた苦しさそのものだった。つまり子供の頃の私は母の感情や思考パターンを無意識レベルでまんまコピーしていたわけだ。まさに母の呪縛といっていい。
じつはこれはよくある話なんだよね。自分の心の動きを意識的に観るという習慣がない場合、親の感情や思考パターンを無意識のうちにそのままコピーしていることが多い。ただコピーする内容が私のようにきついか、もうすこし生きやすいかの違いでしかない。
もし私たちがたんなる親のコピーでしかないのなら親とは違う「私」という人間としてこの世に生まれてきた意味などない。けれどわたしたちは親の思考パターンをコピーしている部分もあるけれど、それがすべてじゃない。自分の心を持ち、肉体を持ったひとりの人間だよね。だからこそ葛藤が生まれ、親子の対立の構造が生まれる。葛藤や対立を避ける必要はない。なぜならそこに気づくことが自立への最初の一歩になるからだ。
自分のなかの思考パターンに気づき、自らの手で親の呪縛から自分自身を解放してあげるための道のりが、本当の自分=自我の目覚めと成長なんだよね。つまり親や社会の借り物でしかない価値感から脱皮して、本来のオリジナルの価値観をそだてることが本物の自立につながる。
なぜ私たちは親たちの無意識を受け継いでしまうのだろう?
それは、いまここに生きている私たちはそれぞれの家系のアンカーであると同時に、時代のアンカーそのものだから。親の世代が解決しきれなかったテーマを解決して、本来の自分の道を歩くこと。言い換えれば、親たちが築いてきた道のその先に新たな道を創ることが私たちひとりひとりに課せられた役割なんだよね。それは時代を創ることそのものでもある。
五年ぶりに会う母は少し白髪が増えたけれど、あいかわらず元気だった。きのうの延長みたいな日常会話をしている母と私をみて、夫が「淡々としてるなあ」と笑っていた。
たしかに淡々としているかもしれない。自分が母の思考パターンをコピーしていたことに気づいた瞬間、長年の苦しさは消えた。あのとき私はようやく母親を乗り越えることができたのだろう。あれから長い年月が過ぎ、母との関係も変わった。
衝突したときもあったけれど、おたがい自分から逃げなかったからこそ今のいい関係がある。戦いすんで日が暮れてじゃないけど、それぞれハードな戦場を駆け抜けてきた兵士どうし、言わなくても分かり合えるとでも言ったらいいか。
いま母に対して感じるのは反発と甘えの混じった親子の感情ではなく、対等な、同じ女性としての敬意。そして「守らなくてはいけない」という呪縛ではなく、自分よりも体力の衰えた母にたいする労わりの思いだった。
やっぱりいつのまにか親を越えたのだろう。
あらためてそんなことを感じた旅だった。
羽田から千歳行きの最終便に乗って千歳で1泊。翌日夫の友人と会い、その足で母の住む町に向かった。
私が生まれたのは北海道のちいさな海辺の町で、5歳の頃までそこに住んでいた。生家から15分くらい歩いたところに母方の祖父の家があって、すぐうらは海だった。
幼い頃はよく海で遊んだ。家の裏手の土手をのぼると、砂浜がどこまでもひろがっている。子供たちが何人か集まっては、波をおいかけて波打ちぎわぎりぎりまでいって、波が打ち寄せてくるとあわてて逃げる。あきもせず日長一日そんなことをしていた。
8年前に祖父も他界し、いまは母がひとりでそこに住んでいる。母は男前というか、ハイカラというか、波乱万丈の人生を歩いてきたひとだった。もともと専業主婦におさまる性格ではなかったらしく、わたしが若い頃離婚して、いまは気楽なひとり暮らしだ。
そんな母だから私ともよく衝突した。若い頃の私は母が許せなかった。正確にいえば両親が許せなかった。両親に代表される自分をとりまく環境のすべてが理不尽で納得がいかなかったんだよね。だから私は学校を卒業してすぐ家をでた。
けれど家を出たからといって、根本的な親子の問題が解決されるわけじゃない。母とは何度もぶつかり、心にたまっていた思いのすべてをぶつけて、つかみ合いの大喧嘩をしたこともあった。
そうした母とのやり取りの一方で、二十代の私はひたすら自分の心を見つめつづけた。「生きることが苦しい」、そう子供の頃から感じ続けていたのはなぜだろう、と。
やがて自分の気持ちをじっと見つめているうちに浮かび上がってきたのは、「親の役に立たない自分は価値がない。自分の気持ちを殺してでも親の心の安定を守れ。それができないなら存在するな、生きるな」という深層心理レベルでの刷り込みだった。
じつはそれは母自身が幼少のころから感じてきた苦しさそのものだった。つまり子供の頃の私は母の感情や思考パターンを無意識レベルでまんまコピーしていたわけだ。まさに母の呪縛といっていい。
じつはこれはよくある話なんだよね。自分の心の動きを意識的に観るという習慣がない場合、親の感情や思考パターンを無意識のうちにそのままコピーしていることが多い。ただコピーする内容が私のようにきついか、もうすこし生きやすいかの違いでしかない。
もし私たちがたんなる親のコピーでしかないのなら親とは違う「私」という人間としてこの世に生まれてきた意味などない。けれどわたしたちは親の思考パターンをコピーしている部分もあるけれど、それがすべてじゃない。自分の心を持ち、肉体を持ったひとりの人間だよね。だからこそ葛藤が生まれ、親子の対立の構造が生まれる。葛藤や対立を避ける必要はない。なぜならそこに気づくことが自立への最初の一歩になるからだ。
自分のなかの思考パターンに気づき、自らの手で親の呪縛から自分自身を解放してあげるための道のりが、本当の自分=自我の目覚めと成長なんだよね。つまり親や社会の借り物でしかない価値感から脱皮して、本来のオリジナルの価値観をそだてることが本物の自立につながる。
なぜ私たちは親たちの無意識を受け継いでしまうのだろう?
それは、いまここに生きている私たちはそれぞれの家系のアンカーであると同時に、時代のアンカーそのものだから。親の世代が解決しきれなかったテーマを解決して、本来の自分の道を歩くこと。言い換えれば、親たちが築いてきた道のその先に新たな道を創ることが私たちひとりひとりに課せられた役割なんだよね。それは時代を創ることそのものでもある。
五年ぶりに会う母は少し白髪が増えたけれど、あいかわらず元気だった。きのうの延長みたいな日常会話をしている母と私をみて、夫が「淡々としてるなあ」と笑っていた。
たしかに淡々としているかもしれない。自分が母の思考パターンをコピーしていたことに気づいた瞬間、長年の苦しさは消えた。あのとき私はようやく母親を乗り越えることができたのだろう。あれから長い年月が過ぎ、母との関係も変わった。
衝突したときもあったけれど、おたがい自分から逃げなかったからこそ今のいい関係がある。戦いすんで日が暮れてじゃないけど、それぞれハードな戦場を駆け抜けてきた兵士どうし、言わなくても分かり合えるとでも言ったらいいか。
いま母に対して感じるのは反発と甘えの混じった親子の感情ではなく、対等な、同じ女性としての敬意。そして「守らなくてはいけない」という呪縛ではなく、自分よりも体力の衰えた母にたいする労わりの思いだった。
やっぱりいつのまにか親を越えたのだろう。
あらためてそんなことを感じた旅だった。
2009年06月22日
カンフーエクササイズ
お昼の仕事が終わってからカンフーエクササイズに行ってきた。
で、早くも筋肉痛。
夏登山に備えて冬の間になまった体をもどすために階段昇降トレーニングも始めたけど、半年のブランクは思いのほか大きい。
ある年齢以上になると、ほっといても筋肉は衰えるので、日頃のトレーニングは手を抜いちゃだめなんだと痛感。
がんばろう。
で、早くも筋肉痛。
夏登山に備えて冬の間になまった体をもどすために階段昇降トレーニングも始めたけど、半年のブランクは思いのほか大きい。
ある年齢以上になると、ほっといても筋肉は衰えるので、日頃のトレーニングは手を抜いちゃだめなんだと痛感。
がんばろう。
2009年06月18日
激動の時代を乗り切る極意 5 ハーメルンの笛吹き
このところのこの星を取り巻くエネルギーがいちだんと強さを増している。
まあ、なんだ、これはいまに始まったことじゃない。去年の夏あたりから始まった大きな流れがいくつかのカーブを曲がりながらいまに至るってところだね。
その間、リーマンショックだのいろいろあったけど、そろそろひとつめの節目に来ているんじゃないかな。節目っていうのは小説でいうならひとつの章の終わりとか、第何幕目かのクライマックスって感じ。なので去年から引きずってきた問題やテーマに現段階での自分なりの決着や折り合い、意味付けをしたうえで、次に進むという流れになっている。
プチクライマックスなので当然精神的にはきついものがある。これはある程度年齢を重ねたひとほど顕著で、ようやくそれまで何十年もかけてすこしずつ取り組んできたテーマの核心部分に到達して、昨年来いやおうなく根本改革に着手してきたんじゃないかな。それも敵前逃亡さえしなければ、ここでいったんケリがつく。
で、自分の中身をいったん整理しなおして次の章に進む。このあたりはとても個人差があって、二通りのパターンにわかれる。
ある程度決着がついているひとは、それまでの経緯のなかで得た自分なりの回答を今後にどう生かすか、どう表現してゆくかという段階に移ってゆく。
一方、昨年あたりからなんとなく目の前の問題に取り組みはじめたものの、決着というには程遠く、いろんなことがとっ散らかった状態のひとは、引き続き整理整頓しつつ、自分を取り巻く状況から何に気づけばいいのか見極める作業を続ける。これは言い換えると、物事の裏側に隠れた本当の自分のテーマを見つける作業でもあるんだよね。
問題を解決してゆくうえでは、全体の事象をとおして、そのものの本質を見極めるという着眼点が大事だよ。激動の時代を切り拓く極意っていうのはシンプルだけどこれに尽きるんだよね。物事の本質を見極めることができれば、あとはどう対処してゆくかだけだからね。「本当の問いを発するものはすでに答えを得ている」っていうでしょ。
そんなわけで以前の書いたかもしれないけれど6月でいったんきり。そして7月から9月の移行期を通って次の章にはいる。
そして時代はわたしたちに厳しい問いを突きつけている。
どうしたいのか?
と。
いまこの国は崖っぷちにいる。
つまり国としてどうありたいのかと問われているんだよね。
いまから七年後にはいまの不況やさまざまな問題を乗り越えて、ある程度安定した世の中になっていると感じる。ただしそれまでの道のりは想像を絶するほど険しいし、安定はひとつの可能性に過ぎない。
わたしの目にはパラダイムシフトの末の安定と映るけど、そこにいたるためには、わたしたちひとりひとりの相当な努力が必要なんだよね。道を間違えばこの国はレミングの行進ならぬハーメルンの笛吹きについていった子供たちのようになる。
未来は決して決められているわけではなく、ある程度遊びがあるんだよね。その理由はわたしたち人間の自由意志というものが未来を決定する大きな要因になっているから。それを逆手にとるなら、わたしたちは望んだ未来を創りあげることもできる。
七年後、どんな未来を手に入れているかは、わたしたちひとりひとりの手にゆだねられている。
どんな社会にしたいのか?
国としてどうありたいのか?
この国に住んでいるかぎり、この問いから逃れられる人間はひとりもいない。
そしてその問いの答えは、薄っぺらな主義主張ではなく、個人の、ひとりひとりの生きかたのなかからしか生まれてこない。だからこそいま各自が向き合っているテーマが重大に意味を帯びてくる。
あなたはどう在りたいですか?
まあ、なんだ、これはいまに始まったことじゃない。去年の夏あたりから始まった大きな流れがいくつかのカーブを曲がりながらいまに至るってところだね。
その間、リーマンショックだのいろいろあったけど、そろそろひとつめの節目に来ているんじゃないかな。節目っていうのは小説でいうならひとつの章の終わりとか、第何幕目かのクライマックスって感じ。なので去年から引きずってきた問題やテーマに現段階での自分なりの決着や折り合い、意味付けをしたうえで、次に進むという流れになっている。
プチクライマックスなので当然精神的にはきついものがある。これはある程度年齢を重ねたひとほど顕著で、ようやくそれまで何十年もかけてすこしずつ取り組んできたテーマの核心部分に到達して、昨年来いやおうなく根本改革に着手してきたんじゃないかな。それも敵前逃亡さえしなければ、ここでいったんケリがつく。
で、自分の中身をいったん整理しなおして次の章に進む。このあたりはとても個人差があって、二通りのパターンにわかれる。
ある程度決着がついているひとは、それまでの経緯のなかで得た自分なりの回答を今後にどう生かすか、どう表現してゆくかという段階に移ってゆく。
一方、昨年あたりからなんとなく目の前の問題に取り組みはじめたものの、決着というには程遠く、いろんなことがとっ散らかった状態のひとは、引き続き整理整頓しつつ、自分を取り巻く状況から何に気づけばいいのか見極める作業を続ける。これは言い換えると、物事の裏側に隠れた本当の自分のテーマを見つける作業でもあるんだよね。
問題を解決してゆくうえでは、全体の事象をとおして、そのものの本質を見極めるという着眼点が大事だよ。激動の時代を切り拓く極意っていうのはシンプルだけどこれに尽きるんだよね。物事の本質を見極めることができれば、あとはどう対処してゆくかだけだからね。「本当の問いを発するものはすでに答えを得ている」っていうでしょ。
そんなわけで以前の書いたかもしれないけれど6月でいったんきり。そして7月から9月の移行期を通って次の章にはいる。
そして時代はわたしたちに厳しい問いを突きつけている。
どうしたいのか?
と。
いまこの国は崖っぷちにいる。
つまり国としてどうありたいのかと問われているんだよね。
いまから七年後にはいまの不況やさまざまな問題を乗り越えて、ある程度安定した世の中になっていると感じる。ただしそれまでの道のりは想像を絶するほど険しいし、安定はひとつの可能性に過ぎない。
わたしの目にはパラダイムシフトの末の安定と映るけど、そこにいたるためには、わたしたちひとりひとりの相当な努力が必要なんだよね。道を間違えばこの国はレミングの行進ならぬハーメルンの笛吹きについていった子供たちのようになる。
未来は決して決められているわけではなく、ある程度遊びがあるんだよね。その理由はわたしたち人間の自由意志というものが未来を決定する大きな要因になっているから。それを逆手にとるなら、わたしたちは望んだ未来を創りあげることもできる。
七年後、どんな未来を手に入れているかは、わたしたちひとりひとりの手にゆだねられている。
どんな社会にしたいのか?
国としてどうありたいのか?
この国に住んでいるかぎり、この問いから逃れられる人間はひとりもいない。
そしてその問いの答えは、薄っぺらな主義主張ではなく、個人の、ひとりひとりの生きかたのなかからしか生まれてこない。だからこそいま各自が向き合っているテーマが重大に意味を帯びてくる。
あなたはどう在りたいですか?
2009年06月04日
2009年下半期 人間力養成講座のご案内
ようやく2009年下半期のセミナーの予定が上がってきました。正式日程はbasic1のみ決定ですが、basic2 advance1,2まで年内に連続講座でやりたいと思っています。こちらはいま場所と日程の調整中です。advance1,2の内容については後日アップしますね。
人生の達人を目指せ!
2009年 人間力養成講座 basic1 のご案内
■日時 7月18(土),19(日)日の二日間
9:30〜16:30
■料金 二日間 3万円
■場所 いずみホール 会議室
JR中央線or武蔵野線西国分寺(南口)下車徒歩1分
■内容
人間力養成講座のコンセプトは、ひとりひとりが本来の創造性を発揮して、自分らしく生きてゆく力を身につけることです。そのはじめの一歩は、本来の自由な発想や行動力を発揮するのを制限している自分自身の無意識の思考パターンに気づくことです。
人間力養成講座ではbasic1,2 ,advande1,2をとおして、積極的に下記のプロセスを起こしてゆきます。
自分の心の動きに気づく
↓
一瞬一瞬の心の動きを自覚する
↓
自分のリアルな感情をしっかりと感じてあげる
するとどうなるか?
それまで事あるたびに反応していた無意識の思考パターンが癒され、すこしずつより自由な自分らしい選択が出来るようになってゆきます。
つまり、
自分自身を受けとめる(自己受容)、自分にYESと言ってあげる
↓
自分の本当の望みがわかる
↓
行動力がでる、チャンスを引き寄せる力が強くなる
↓
望んだ未来が実現する
↓
人生の達人!
人間力を磨き、望んだ人生を手にいれたい方、とくに職場での人間関係・子育ての悩みを改善したい方、自己実現して自分らしく生きたい方はぜひどうぞ。
またシャーマンやヒーラーを目指している方にとってはこの講座の内容は必須です。
講座でお教えしたことを日常生活のなかで積極的に活用してみてください。精神的な成長が深まるにつれてビジネス・子育て・恋愛シーンが変わってゆきます。
basic1
・願望と未来の関係〜願いを叶えるにはコツがある
・心のしくみとその働き
・サブパーソナリティーの説明
・フォーカシング初級1(自分の感情と向き合う方法)
・イメージワーク 1
basic2
・自分自身の認知パターンを知る
・右脳と左脳のバランスのよい使い方
・フォーカシング初級2
・サブパーソナリティーワーク
・イメージワーク 2
・セルフヒーリング
・グランディング
人生の達人を目指せ!
2009年 人間力養成講座 basic1 のご案内
■日時 7月18(土),19(日)日の二日間
9:30〜16:30
■料金 二日間 3万円
■場所 いずみホール 会議室
JR中央線or武蔵野線西国分寺(南口)下車徒歩1分
■内容
人間力養成講座のコンセプトは、ひとりひとりが本来の創造性を発揮して、自分らしく生きてゆく力を身につけることです。そのはじめの一歩は、本来の自由な発想や行動力を発揮するのを制限している自分自身の無意識の思考パターンに気づくことです。
人間力養成講座ではbasic1,2 ,advande1,2をとおして、積極的に下記のプロセスを起こしてゆきます。
自分の心の動きに気づく
↓
一瞬一瞬の心の動きを自覚する
↓
自分のリアルな感情をしっかりと感じてあげる
するとどうなるか?
それまで事あるたびに反応していた無意識の思考パターンが癒され、すこしずつより自由な自分らしい選択が出来るようになってゆきます。
つまり、
自分自身を受けとめる(自己受容)、自分にYESと言ってあげる
↓
自分の本当の望みがわかる
↓
行動力がでる、チャンスを引き寄せる力が強くなる
↓
望んだ未来が実現する
↓
人生の達人!
人間力を磨き、望んだ人生を手にいれたい方、とくに職場での人間関係・子育ての悩みを改善したい方、自己実現して自分らしく生きたい方はぜひどうぞ。
またシャーマンやヒーラーを目指している方にとってはこの講座の内容は必須です。
講座でお教えしたことを日常生活のなかで積極的に活用してみてください。精神的な成長が深まるにつれてビジネス・子育て・恋愛シーンが変わってゆきます。
basic1
・願望と未来の関係〜願いを叶えるにはコツがある
・心のしくみとその働き
・サブパーソナリティーの説明
・フォーカシング初級1(自分の感情と向き合う方法)
・イメージワーク 1
basic2
・自分自身の認知パターンを知る
・右脳と左脳のバランスのよい使い方
・フォーカシング初級2
・サブパーソナリティーワーク
・イメージワーク 2
・セルフヒーリング
・グランディング
2009年05月27日
激動の時代を乗り切る極意 4 『我』
さて本日のテーマは『我』について。
だいたいこのテーマは先日予告したものの、ゆっくり時間をとって考えないと書けない内容なだけに、忙しさにかまけてつい後回しにしていたんだよね。
・・・・はい。これは自己正当化だね。
つまり相手から非難される前に防御をはっておこうという姿勢だよね。ま、ブログの更新程度なら実害はないんだけど、これを対人関係や仕事であまりやりすぎると具合の悪いことになってくる。
自己正当化する時っていうのは、自分を守ろうとしている状態なんだよね。つまり保身に走っている状態。当然、そういう時は相手の置かれた状況や気持ちを理解するなんていう精神的な余裕はない。まして状況を客観的に把握して対策を練るなんてことは不可能にちかい。
相手も人間だからね。往々にしてこっちのそんな態度に反応して感情的になる。そうなるとこんどは確証バイアスが働くんだよね。確証バイアスというのは社会心理学などで使われる用語で『選択的思考』のこと。
どういうことかっていうと、人間は多かれ少なかれ、自分の信じたいものを信じたいんだよね。
あたりまえだって? うん。
たとえばAさんという若い女性がいたとするよね。彼女は「わたしは魅力的なので男性からモテる」という信念の持ち主。ある日同期の男性Bさんが残業で残っていた彼女の仕事を手伝ってくれたとする。その結果、彼女は「やっぱりわたしはモテるんだわ」と自信を深めた。事実はたまたまBさんは手があいていただけだったんだけどね。
これが確証バイアスというやつ。自分が信じたい信念や考え方の裏付けとなる事実だけを重要視して、自分の考えを否定するような事実には目を向けなかったり、軽んじたりすることによって信念が強化されていく。
Aさんの場合は、「自分は魅力的なので男性にモテる」からBさんが手伝ってくれたと考えた。このとき「Bさんは誰にでも親切である」「Bさんはたまたま手があいていた」という彼女の信念を否定する可能性のある事実は無視されている。
ま、この例はかわいいもので、たいした実害はないよね。ところが自己正当化にこの確証バイアスを使うと話が深刻になってくる。
だいたい対人関係における揉め事の多くは自己保身からくるんだよね。傷つきたくない、失敗を認めたくない、自分の置かれた厳しい現実を認めたくないというとき、多くのひとは自己正当化する。つまり自分に言い訳をするんだよね。
「あのひとがあんな言い方をしたからいけないんだわ」
「まわりが悪い」
「たしかに失敗はしたけれど、こうなったのはあのひとのせいよ」
「あのひとはわたしの価値観なんて認めてくれないんだから、どうせ言ったってわかってくれないわ」
etc.
こちらが上記のような気持ちで相手に接すれば、相手だって気分が悪いし、自分を守りたくなるよね。その結果当初予想したとおりの(それもネガティブな!)反応がかえってくる。このとき「やっぱり思ったとおりだわ」と思うことで確証バイアスが深まってゆく。その結果、人間関係はどんどんこじれて、悪循環にはまってゆく。
上記のやりとりのなかで最大の問題点はなんだと思う?
それは、相手がネガティブな言動をするように自分から仕向けていることなんだよね。そして相手も自分もそのことに気づいていない。
じゃどうしたらいいのか?
それは『激動の時代を乗り切る極意 3 自己正当化〜対人関係編』で書いたとおり、まず自分の状態に気づくこと。そのうえで客観的に事実を検証してゆくこと。確証バイアスの罠に陥らないためには、相手のプラス面とマイナス面の両方をみてゆくこと。これは対人関係だけではなく、仕事でも同じ。そのプロジェクトの状況を客観的に見てゆくことに尽きる。
前回自己正当化の正体は『我』だと書いたよね。もういちど整理すると、自分を守ろうとする気持ちやちいさな自分の考えに執着する気持ちが『我』。そしてこの『我』を押し通そうとするとき自己正当化が始まる。
どうやらわたしたちが心身ともに気持ちよく生きるには『我』の攻略がポイントだってことがわかってきたよね。そこであらためて考えてもらいたいんだけど、そもそも『我』とはなにか? なぜわたしたちには『我』が備わっているのか?
それは『我』が「モノ」の特徴的な性質だからなんだよね。
「モノ」というのは「物、物質」であり「者」のこと。わかりやすく「物質」に限定して説明すると、物質というのはある特定の形を保持しようとする性質を持っているんだよね。
たとえば木の机は炭素をはじめとした分子の集まりだよね。いったん机という形をとると、こんどはその形を維持しようとする作用が働き続ける。わたしたちの肉体も同じ。この肉体を維持するためにわたしたちは自分以外のモノを殺し、食事という形で肉体に取り込む。他者から攻撃されて生命の危機を感じれば、わたしたちは本能的に生きのびようとするよね。
つまりいちど出来上がった形を維持しようとするのがモノの本質なんだよね。こうしたモノである肉体の性質は当然のことながら、わたしたちの精神にも大きな影響を与えている。
客観的にみれば、日常生活のなかで多少の失敗や自分の非を認めたって生命の危機に結びつかないことのほうが圧倒的に多い。にもかかわらず傷つきたくない、失敗を認めたくないといった自分を守ろうとする気持ちが生まれてくるのは、わたしたちの多くが肉体というモノの支配下から脱していないということなんだよね。
人間が机と違うところは「モノ」の性質と純粋な「精神・神性」の両方をあわせもっているところなんだよね。
「精神・神性」というのは、モノの性質を越えたところにあって、モノを創りだしたり、モノの働きを制御したりする力。ただしわたしたち人間は「精神・神性」が未熟な状態で生まれてくるので、これは意識的に育てなきゃいつまでたっても未熟なまま。
もちろん赤ちゃんはそこにいるだけで周囲のひとを暖かい気持ちにさせるように、精神が未熟だってその存在価値はなにひとつ輝きを失ったりしない。けれど精神が未熟な状態でいることは、たぶん生き辛さやしんどさを抱えたまま生きている状態なんだよね。その状態から抜け出したいなら、自分自身の精神・神性を育てて、モノの影響下から脱却したほうがいい。
精神が育ち、モノの影響下を脱するとどうなるか?
こんどは今までとは逆にモノを自由にコントロールできるようになる。ひらたくいうと、人間関係がスムーズになったり、願望を実現する力が格段に強くなる。いまの時代を生きのびるためにはとても必要な力なんだよね。
どうしたら精神が育つのかって?
昔はこうした力を駆使できる人間は限られていて、かれらは魔法使いとかシャーマンなどと呼ばれていた。ヨガや禅の高僧なんてのもそうかな。でもいまはこうした心の成長過程は心理学ではかなり解明されていて、魔法でも奇跡でもないことがわかっている。わたしもセッションや人間力養成講座で主婦やビジネスマンに教えているくらい普通のことになりつつある。
具体的には『激動の時代を乗り切る極意 3 自己正当化〜対人関係編』で簡単に箇条書にしておいたので実践してみてね。もっと詳しく個人に状況に特化して教えて欲しい方は個人カウンセリングか、夏にやろうと思っている(・・・の予定)人間力養成講座に参加してみてね。
だいたいこのテーマは先日予告したものの、ゆっくり時間をとって考えないと書けない内容なだけに、忙しさにかまけてつい後回しにしていたんだよね。
・・・・はい。これは自己正当化だね。
つまり相手から非難される前に防御をはっておこうという姿勢だよね。ま、ブログの更新程度なら実害はないんだけど、これを対人関係や仕事であまりやりすぎると具合の悪いことになってくる。
自己正当化する時っていうのは、自分を守ろうとしている状態なんだよね。つまり保身に走っている状態。当然、そういう時は相手の置かれた状況や気持ちを理解するなんていう精神的な余裕はない。まして状況を客観的に把握して対策を練るなんてことは不可能にちかい。
相手も人間だからね。往々にしてこっちのそんな態度に反応して感情的になる。そうなるとこんどは確証バイアスが働くんだよね。確証バイアスというのは社会心理学などで使われる用語で『選択的思考』のこと。
どういうことかっていうと、人間は多かれ少なかれ、自分の信じたいものを信じたいんだよね。
あたりまえだって? うん。
たとえばAさんという若い女性がいたとするよね。彼女は「わたしは魅力的なので男性からモテる」という信念の持ち主。ある日同期の男性Bさんが残業で残っていた彼女の仕事を手伝ってくれたとする。その結果、彼女は「やっぱりわたしはモテるんだわ」と自信を深めた。事実はたまたまBさんは手があいていただけだったんだけどね。
これが確証バイアスというやつ。自分が信じたい信念や考え方の裏付けとなる事実だけを重要視して、自分の考えを否定するような事実には目を向けなかったり、軽んじたりすることによって信念が強化されていく。
Aさんの場合は、「自分は魅力的なので男性にモテる」からBさんが手伝ってくれたと考えた。このとき「Bさんは誰にでも親切である」「Bさんはたまたま手があいていた」という彼女の信念を否定する可能性のある事実は無視されている。
ま、この例はかわいいもので、たいした実害はないよね。ところが自己正当化にこの確証バイアスを使うと話が深刻になってくる。
だいたい対人関係における揉め事の多くは自己保身からくるんだよね。傷つきたくない、失敗を認めたくない、自分の置かれた厳しい現実を認めたくないというとき、多くのひとは自己正当化する。つまり自分に言い訳をするんだよね。
「あのひとがあんな言い方をしたからいけないんだわ」
「まわりが悪い」
「たしかに失敗はしたけれど、こうなったのはあのひとのせいよ」
「あのひとはわたしの価値観なんて認めてくれないんだから、どうせ言ったってわかってくれないわ」
etc.
こちらが上記のような気持ちで相手に接すれば、相手だって気分が悪いし、自分を守りたくなるよね。その結果当初予想したとおりの(それもネガティブな!)反応がかえってくる。このとき「やっぱり思ったとおりだわ」と思うことで確証バイアスが深まってゆく。その結果、人間関係はどんどんこじれて、悪循環にはまってゆく。
上記のやりとりのなかで最大の問題点はなんだと思う?
それは、相手がネガティブな言動をするように自分から仕向けていることなんだよね。そして相手も自分もそのことに気づいていない。
じゃどうしたらいいのか?
それは『激動の時代を乗り切る極意 3 自己正当化〜対人関係編』で書いたとおり、まず自分の状態に気づくこと。そのうえで客観的に事実を検証してゆくこと。確証バイアスの罠に陥らないためには、相手のプラス面とマイナス面の両方をみてゆくこと。これは対人関係だけではなく、仕事でも同じ。そのプロジェクトの状況を客観的に見てゆくことに尽きる。
前回自己正当化の正体は『我』だと書いたよね。もういちど整理すると、自分を守ろうとする気持ちやちいさな自分の考えに執着する気持ちが『我』。そしてこの『我』を押し通そうとするとき自己正当化が始まる。
どうやらわたしたちが心身ともに気持ちよく生きるには『我』の攻略がポイントだってことがわかってきたよね。そこであらためて考えてもらいたいんだけど、そもそも『我』とはなにか? なぜわたしたちには『我』が備わっているのか?
それは『我』が「モノ」の特徴的な性質だからなんだよね。
「モノ」というのは「物、物質」であり「者」のこと。わかりやすく「物質」に限定して説明すると、物質というのはある特定の形を保持しようとする性質を持っているんだよね。
たとえば木の机は炭素をはじめとした分子の集まりだよね。いったん机という形をとると、こんどはその形を維持しようとする作用が働き続ける。わたしたちの肉体も同じ。この肉体を維持するためにわたしたちは自分以外のモノを殺し、食事という形で肉体に取り込む。他者から攻撃されて生命の危機を感じれば、わたしたちは本能的に生きのびようとするよね。
つまりいちど出来上がった形を維持しようとするのがモノの本質なんだよね。こうしたモノである肉体の性質は当然のことながら、わたしたちの精神にも大きな影響を与えている。
客観的にみれば、日常生活のなかで多少の失敗や自分の非を認めたって生命の危機に結びつかないことのほうが圧倒的に多い。にもかかわらず傷つきたくない、失敗を認めたくないといった自分を守ろうとする気持ちが生まれてくるのは、わたしたちの多くが肉体というモノの支配下から脱していないということなんだよね。
人間が机と違うところは「モノ」の性質と純粋な「精神・神性」の両方をあわせもっているところなんだよね。
「精神・神性」というのは、モノの性質を越えたところにあって、モノを創りだしたり、モノの働きを制御したりする力。ただしわたしたち人間は「精神・神性」が未熟な状態で生まれてくるので、これは意識的に育てなきゃいつまでたっても未熟なまま。
もちろん赤ちゃんはそこにいるだけで周囲のひとを暖かい気持ちにさせるように、精神が未熟だってその存在価値はなにひとつ輝きを失ったりしない。けれど精神が未熟な状態でいることは、たぶん生き辛さやしんどさを抱えたまま生きている状態なんだよね。その状態から抜け出したいなら、自分自身の精神・神性を育てて、モノの影響下から脱却したほうがいい。
精神が育ち、モノの影響下を脱するとどうなるか?
こんどは今までとは逆にモノを自由にコントロールできるようになる。ひらたくいうと、人間関係がスムーズになったり、願望を実現する力が格段に強くなる。いまの時代を生きのびるためにはとても必要な力なんだよね。
どうしたら精神が育つのかって?
昔はこうした力を駆使できる人間は限られていて、かれらは魔法使いとかシャーマンなどと呼ばれていた。ヨガや禅の高僧なんてのもそうかな。でもいまはこうした心の成長過程は心理学ではかなり解明されていて、魔法でも奇跡でもないことがわかっている。わたしもセッションや人間力養成講座で主婦やビジネスマンに教えているくらい普通のことになりつつある。
具体的には『激動の時代を乗り切る極意 3 自己正当化〜対人関係編』で簡単に箇条書にしておいたので実践してみてね。もっと詳しく個人に状況に特化して教えて欲しい方は個人カウンセリングか、夏にやろうと思っている(・・・の予定)人間力養成講座に参加してみてね。








