黒澤明監督作 「夢」を観て
きのう久しぶりにレンタル屋さんからビデオを借りてきた。
黒澤明監督の「夢」という作品です。
ご存知の方もいるかと思うんだけど、これは黒澤明の見た夢をもとに数話のオムニバスからなる作品で、わたしは1990年に公開されてから、それほど時間がたたないうちにテレビで放映されたのを見たことがあるんだよね。
狐の嫁入りのエピソードが印象的で、随所の色使いや映像も美しい。
でも当時は少々単調な映画だなあと思った記憶がある。
で、ひさびさに昨日見たわけだけど、正直に言って唸った。
昨今の自然現象だの日本の政治だのをみるにつけ、単調な映画だなあ・・・などとは言えなくなってしまった。
これを1980年代の終わりに製作したのはスゴイことだと思った。
ここから先はネタばれになる可能性大なので、まだ観ていない方は読まないほうがいいかも。
映画は狐の嫁入りを見てしまった少年が母親に、
「あなたは見てはいけないものを見てしまった。きっと悪いことが起こる」
と言われるエピソードから始まる。
じつはこれが後半の富士山が爆発して原子力発電所が大事故を起こす話や核戦争によって人間も生き物も突然変異を起こして鬼になってしまった未来の話への伏線になっているんだよね。
ここで疑問がわく。
映画のなかにでてくる狐は何を象徴しているんだろう?
民話や民間伝承にでてくる狐というのは人間を越えた力を身につけた存在として描かれる場合が多い。あやかしを使って人間を化かしたり、惑わせたりして、わたしたち人間の常識をいとも簡単にあざ笑う。言ってみれば、狐たちの使う妖術の源は征服しがたい自然の力そのものなのだ。
じゃあ科学って何だろう?
いっけん自然と対極にあるように見えるけど、じつは科学は自然の法則そのものなのだ。引力も重力も複雑な化学式もすべて自然の法則のなかから発見されてきたものばかりだ。
そして近代文明は効率と生産増加のためにこの科学技術を使った。
狐の使う妖術とわたしたち人間の使う科学技術はいったいどこが違うのか?
どちらも自然あるいは宇宙の法則を利用する。
そしてどちらも使い方が難しい。
映画の中で、少年は狐の嫁入りを見てしまう。
つまり自然の秘密を手に入れてしまうわけだ。
ただし何度でも書くが、自然の力を使いこなすのは難しい。
なぜなら大きな力を使うにはそれ相応の器がなければ使いこなすことはできないからだ。
ここまで書いて気がついた。
狐とは「近代科学」の象徴そのものなのだ。
そう考えると、
「見てはいけないものを見てしまった。だから悪いことがおきる」
というせりふは使いこなすすべも知らずに科学技術の秘密を手に入れてしまった人間たちへの警告ではないだろうか。
もちろん黒澤明がここまで考えて映画を作ったかどうかはわからない。でも映画に出てくる未来の姿は、今となってはあまりにもリアルだ。
そして映画は絶望的な未来の物語を経て、現代ののどかな田舎の村を舞台にした最終話へたどり着く。
この話では村のお年寄りのお葬式のシーンが出てくる。お葬式といっても、まるで祝い事のように笛や太鼓を鳴らしながら村じゅうで野辺送りをするんだよね。
そのなかでとても印象的なせりふがある。
「死は悲しいものではない。もちろん若い者が死ぬのはそのかぎりではないが、年相応の者が死ぬのはめでたい。よく働き、よく生きて死ぬ。ごくろうさまと言ってやりたい」
たしかこんなせりふだったと思う。
三年前に96才で逝った祖父を思うと、このせりふは納得できる。
自然の流れに逆らわずに生きる。
そういう選択もありなのだろう。
科学技術という魔法を手に入れてしまったわたしたちの未来はどちらだろう? 冒頭の狐はわたしたち人間に対して、手に入れた力をどう使うのかを突きつけているのかもしれない。
2004年1月9日
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