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男鹿真山神社に残る神功皇后の足跡と藤の花

 
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脳科学と心理学に精通し、16年間で1万人以上の相談にのってきたシャーマン。「信じる力は、世界を変える」がモットー。自分自身を信じる力・愛を受け取る力を育てる方法、激動の時代を乗り切る極意を教えている。 著書「なぜ眠り姫は海で目覚めるのか? 超ネガティブ思考を解除する3つのメソッド
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先日、ナマハゲで有名な秋田県の男鹿半島に行ってきました。
というわけで、題して「男鹿半島と神功皇后」をお届けです。
 

男鹿真山神社

まず最初に寄ったのは男鹿海鮮市場。
大洗の海鮮市場を想像していたんだけど、男鹿海鮮市場の規模はその20分の一くらい。
でもおさかなはとても美味しかった。
とくにトロワカメは絶品なので、男鹿に行ったらぜひ食べてみて。
 

昼食を済ませ、次に向かったのが真山神社だ。
真山神社は男鹿半島の北部に位置し、本殿は標高567メートルの真山山頂に鎮座している。今回は山頂まで登ると日が暮れそうなので、拝殿のある里宮参拝ですませたけど、ここは古くから山岳信仰の霊場としても栄えてきた。
 

社伝によると、景行天皇の時代、武内宿禰(たけのうちのすくね)が北陸北方視察の際に男鹿半島に立ち寄り、湧出山(わきいでざんと読む、真山のこと)に登って使命達成、国土安泰、武運長久を祈願して、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の二柱を祀ったことが始まりだという。
 

<主祭神>
瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
 

<合殿神>
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
豊受大神(とようけのおおかみ)
豊玉毘女神(とよたまひめのみこと)
少彦名神(すくなひこなのみこと)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
大名持神(おおなもちのみこと)
塞神三柱神(さえのみはしらのかみ)
 

塞神三柱神とは、
衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、
八衢比古(やちまたひこ)、
八衢比売(やちまたひめ)
 

すごく気のいい場所で、あたたかい気持ちになってくる。
秋田に行ったら、ぜひ足を運んで欲しい神社。
 

真山神社

真山神社

神功皇后と藤の花

じつは由来については以下の別伝もある。
武内宿禰の嫡孫の弥真唯が東征の折に湧出山(わきいでざん)に登った。
このとき藤の花を手向けたので、湧出山を花取山とも呼ぶという。
 

で、わたしはこの藤の花に反応したんだよね。
じつは藤の花は神功皇后の象徴。
 

でも真山神社の御祭神のなかに神功皇后ははいっていない。
それなのに藤の花を手向ける?
どういうことだろう?
 

ちなみに神功皇后という人物は歴史上存在していなかった。
じゃ、なぜ各地に神功皇后伝説がたくさんあるのか?
 

神功皇后は8世紀の古事記編集の際に創作された人物だ。
もちろん、神功皇后のモデルとなった女性は存在した。
なぜ古事記の執筆者たちは歴史を捻じ曲げてまで、神功皇后という人物を創作したのか?
 

それは当時の権力者である持統天皇が神功皇后のモデルとなった人物の存在を隠したかったからだ。
けれどその人物を完全に抹殺すれば日本の古代史が成り立たなくなる。
そこで苦肉の策で、神功皇后という人物を作り上げ、古代史の整合性をとろうとしたのだろう。
 

神功皇后のモデルとなった人物の正体を語る前に古代の交易ルートをみて欲しい。
 

古代の交易ルートと神功皇后の足跡

地図をみるとわかるけど、男鹿半島は日本海に突き出た形をしている。
じつは6000年前、男鹿半島は島だった。
ところが本土の北岸と南岸から流れ込んで来る砂によって、男鹿島と本土との間を隔てていた海が埋まり、いまの男鹿半島の姿になったのだという。
 

入道崎

男鹿半島北端の入道崎灯台

 

日本海では古代から対馬海流やリマン海流を使った海上交通が発達し、北海道から九州、さらには大陸とのあいだで活発な交易がおこなわれていた。そうした状況の中で、日本海に突き出た男鹿半島は風待ち港でもあり、交易の中継地だった。
おそらく神功皇后の臣下である武内宿禰は海上ルートを使って男鹿半島に上陸したのだろう。
 

入道崎の入日

北緯40度の入道崎に沈む夕日

ところで武内宿禰の孫の弥真唯は湧出山で神功皇后の象徴である藤の花を手向けている。
なぜだろう???
花を手向けるというのは、そこで亡くなった人に対してすることだよね。
で、調べてみると面白いことがわかった。
 

秋田県大仙市にある唐松神社の宮司家は物部氏の末裔で、「秋田物部文書」を一子相伝で代々受け継いでいるというのだ。その話の一部が社伝として公開されているんだよね。
 


以下玄松子さんのHPから転載。
↓↓↓
 

唐松神社は、本来「韓服宮」という名前。
三韓征伐後、つまり韓を征服した神功皇后の創建という意味。
新羅征討に参加した、物部氏・膽咋連(いくいくむらじ)が、皇后の御腹帯を拝受し、当地に来て、月出野に、当社を創建した。
 

また、三韓征伐の帰路、神功皇后は男鹿半島から当地に立寄り、石見川(岩見川)を経て、当地に上陸(船岡という)。船玉大神を祀った。
唐松神社の北東5Kmに、その船玉神社が祀られており、祭神は神功皇后を援けた住吉三神。
 

当社境内にある唐松山天日宮について。
物部文書によると、物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。
その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。
 

延宝8年に、藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。
今でも、唐松岳に元宮がある。
饒速日命の居住していた場所は、御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた三倉神社のある場所。
当地で、饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという。
 

饒速日命は日殿山に、神功皇后は月出野に、社殿を造営しており、日月の対比が面白い。

当社祭神の軻具突命は、別名・愛子大神。
当地の物部氏の氏神である火結神のこと。
 

↑↑↑
転載ここまで。
 

要約すると、神功皇后自身が男鹿半島に上陸して、この地に立ち寄り、船玉大神を祀った。
また饒速日もこの地に日の宮を建てて住んでいた。
 

過去のブログ記事「古代幻視 3 神功皇后」で、饒速日(ニギハヤヒ)と瓊瓊杵命(ニニギノミコト)は同一人物であり、彼と神功皇后は夫婦だったと書いたのを覚えているだろうか。
その視点でみるなら、真山神社に祀られている瓊瓊杵命(ニニギノミコト)は神功皇后の夫である饒速日(ニギハヤヒ)のことだ。
 

どうやら神功皇后は秋田とは無縁ではないらしい。
 

神功皇后の正体

神功皇后のモデルだった女性はたくさんの名前をもっている。
ずいぶん前に神功皇后を幻視したとき、彼女の通称のひとつが藤宮だった。
そのとき、藤は霊力が強い木だからシャーマンである神功皇后にはぴったりの呼び名だと思ったのを覚えている。
 

考えてみると、神功皇后には藤の花がつきまとう。
 

以下は愛媛県神社庁に掲載されている松山市の住吉神社の伝承。
 

↓↓↓

神功皇后三韓征討(「日本書紀」に記述が残る。三世紀に神功天皇が行ったとされる新羅出兵をさす)の途次、住吉大明神のお告げにより南海にて白真珠を得て勝軍の告端あり、凱旋のとき九本の藤の木を海中に流し藤の木は伊予の九箇所の浦に漂着した。その地に社殿を建立し、奉斎したという九社のうち当社はその一社と伝承されている。
 

↑↑↑
転載ここまで
 

この9本の藤の枝が流れ着いた場所に住吉神社が建てられ、この9社を伊予国の藤の宮九社と呼ぶ。
神功皇后の通称・藤宮と一致するのは偶然ではないだろう。
 

もうひとつ丹後の籠神社の奥宮の真名井神社には「豊受大神の顔は藤の花、みたまは天の真名井の水」という秘伝がある。
 

籠神社の葵祭は代4代懿徳天皇4年に始まった。
当時は藤祭と呼ばれ、豊受大神の再誕を祝う「御生れ神事」だったらしい。
欽明天皇の時代に賀茂神社の祭りが「葵祭」と称されるようになったため、籠神社の藤祭も葵祭と名称をあらためたが、現在でも籠神社の葵祭りに携わる人々は冠に豊受大神ゆかりの藤の花を挿すのが古例となっている。
 

さらに面白い話がある。
谷川健一によると、藤は古代の鉱物神の象徴なのだという。
その理由は砂鉄を取り出すときに使う鉄穴流し用のザルは藤の蔓で編まれているからだ。
神功皇后は鉱物系の一族の出身だった可能性が出てきた。
 

鉱物神といえば鉱山開発と製鉄の技術をもち、大陸から日本列島にかけて幅ひろく海運を握っていた金山彦だろう。
金山彦の別名は足名椎命(あしなづち)、面足尊(おもだるのみこと)、軻具突命(かぐつち)、愛子大神だ。
足名椎命(あしなづち)といえば、八岐大蛇の生贄にされる寸前でスサノオに助けられた櫛稲田姫(くしなだひめ)の父親だ。
 

さてこのあたりで神功皇后と藤の花の関係に絞って話を整理しよう。
 

藤宮=神功皇后
藤の花=豊受大神
象徴としての藤=鉱物神=金山彦=軻具突命=足名椎命=櫛稲田姫の父親

 

ということは、
神功皇后=豊受大神=櫛稲田姫

となる。
 
また櫛稲田姫は瀬織津姫、禍津日神(まがつひのかみ)ともイコールだ。
 

そういえば真山神社にも、主祭神の瓊瓊杵命とともに豊受大神が祀られていた。
ちなみに瓊瓊杵命=饒速日の別名は櫛稲田姫の夫スサノオだ。
 

つまり神功皇后の正体は豊受大神であり、櫛稲田姫だった。
 

なぜ櫛稲田姫は持統天皇によって隠されなければならなかったのだろう? 
その答えはまた別の機会に。
 

そうそう、武内宿禰の孫の弥真唯が湧出山で藤の花を手向けた相手は誰だったのかという最初の疑問。
その答えはもうとっくに気づいているよね。
 

彼が藤の花を手向けたのは櫛稲田姫そのひとだったのだろう。
この地が櫛稲田姫の最後に住んだ地だったのか、いまとなってはわからない。
ただ誰もいない境内に穏やかな風だけが吹いていた。
 
真山神社の境内

2022年5月10日
 

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