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君のために祈るよ

 ずいぶん昔、自分には価値がないと思い込んでいた時期がある。
 親やまわりのおとなたちが理不尽な言動をしたときも、
 仕事で背後から弾が飛んでくるという想像を絶するトラブルが勃発したときも、
 客観的にみて、相手のほうが数倍悪いという状況でも、
 長いことわたしは「わたしには能力がない。だからわたしはあのひとたちと仲間でいる価値がない」と思い込んでいた。「悪いのは私。自分には価値がない。」と思うことで、心の奥にある最後の砦をずっと守り続けてきたんだよね。
 

 最後の砦。
 それは、この世界に対する根本的な信頼感だ。
 

 幼いこどもにとっては世界とは身の回りがすべてだ。おとなたちに理不尽な仕打ちを受けると、こどもはこの世界は恐怖と不安に満ちているのだと認識してしまう。まだ自分で自分の身を守ることができない幼いこどもにとって、この世界の実態が愛や優しさではなく、悪意や暴力なのだと認識することは耐え難い苦痛なんだよね。
 

 それよりも、
「自分に価値がないからこんな仕打ちを受けるのだ。いつか自分も価値のある存在になれば、まわりも優しくしてくれるに違いない。この世界には価値がある。この世界は愛とやさしさに満ちているはずだ。ただ価値のない自分にはまだ受け取る資格がないだけだ」
 

 こんなふうに自分を悪者にしても、この世界は生きるに値すると認識するほうがずっと楽なのだ。
 ひとは真の絶望を抱えて生きることはできない。
 幼いわたしもそう思い込んだんだよね。
 だから成人してからも長いこと、根底にある無価値観に悩まされてきた。
 

 そんな自分の気持ちを眺めては受けとめるという作業をするようになってからずいぶん経ったある日のこと。胸の奥で鈍く疼く感覚を感じつつ、その感覚に優しく訊いてみた。
 

 ーーー自分には価値がないと思うことで、どんないいことがある? 何を守ろうとしてきたの?
 
 「信じること。この世界は信じるに値する。人間を信じていいんだ、という気持ち。自分の中のこの世界に対する根本的な信頼感を守りたかった」
 
 ---じゃ、その気持ちを十分に味わって。・・・どんな感じ?
 
 「安心。。。ほっとする」
 
 ーーーじゃ、その気持ちを十分に味わって。・・・どう?
 

 首、そして肋骨がぐぐ・・・・っと動く。筋肉がゆるみ始めている証拠だ。背中と丹田があたたかくなる。
 気づいたら気持ちが楽になって、筋肉や骨格も変化していた。
 

 あれからもうずいぶん経つ。
 いまはもう子どもの頃に抱えていた無価値感はない。もちろん人間の心は玉ねぎみたいなものだから、次のジャンプの時期がきたらさらに深いところのコード化された古い感情が浮き上がり、さらに深い部分を観ることになるだろう。でもいまはじゅうぶんに幸せだ。
 

 そして思うんだよね。 
 自分の中の幼いこども(サイコシンセシスではサブパーソナリティーと呼ぶ)はなんて健気で、一生懸命なんだろう。自分が悪者になってまでも、「わたし」を守りたかったんだよね。「わたし」が生きるこの世界は残酷で恐ろしいものではなく、発展途上ではあるけれど、それでも本質的に愛とやさしさに満ちた世界であるという世界観を守りたかったんだよね。
 

 そんな自分の中の幼いこどもに守られて、私は絶望することなく、ここまで生きてくることができた。
 あらためて私の中の幼い「君」に感謝。
 

 「君」のために時間を超えて祈り続けるよ。
 ・・・・ずっと。ずっとね。
 
 
2014年12月5日

愛するということ

 ここ数年、家庭も、仕事も、趣味も、人生の楽しみの主要な部分はじゅうぶん満たされた日々を過ごしている。考えてみたら、人生に多くを望んだわけじゃなかった。わたしがいちばん欲しかったのは無条件の愛だけだった。それ以外はいらない。ずっとそう思っていたんだよね。
 

 若い頃のわたしは生きるのがとても辛かった時期が長かった。
 親や周囲の人間は自分にとって、いつだって怒りと悲しみの源であり、間違っても味方だと感じたことはなかった。まあひとことで言うと、うまくいかない家族関係の中でさまざまな重荷を背負ってしまって、それが成人後も尾をひいていたわけだ。、
 

 そんな経緯があって、わたしは永遠の愛、無条件の愛がほしかった。
 わたしの何もかもを受け入れ、愛してくれるひとがほしかった。
 
 
 でもそんなものは生身の人間にはほぼ不可能に近い。
 それができるとしたら、それは神の愛だ。
 ・・・と、思っていた。
 
 
 不平不満を言っていても人生は変わらない。
 まずは自分にできることをしようと思った。 
 わたしが取り組んだのは、そんな自分の苦しい気持ちを受け止めてあげることだった。 
 

 どんなにダメでも、情けなくても、それでもわたしは、ここにいる。
 それでも生きている。
 世界中を敵にまわしても、それでもわたしは生きている。
 その事実だけは誰にも否定することはできない。
 生きようとする命を止めることなんて誰にもできない。
 わたしだけは、わたしの味方だよ。
 誰ひとり愛してくれなくても、わたしだけはわたしを愛してあげよう。
 自分自身でいることを決して放棄しない。
 若かったわたしはそう心に決めた。
 

 ささいなことで揺れる自分の気持ちに気づいたら、それを優しく受けとめてあげる。
 できることから自分の望みを叶えてあげる。
 お茶にするか、コーヒーにするか? 
 この映画は観たいか、観たくないか?
 このお誘いにYESと言うか、NOと言うか?
 

 ちいさなことこそ大切に、自分の意志で決めることが、自分を愛する、認める、信頼するの一歩目だ。最初のうちは自分自身でいることができなくて、NOと言うことにものすごくエネルギー使ったり、不必要に攻撃的だったり、自己中だったり、そりゃ大変だった(笑。
 

 そんなふうに自分を知って、自分の中の喜怒哀楽やさまざまな思いを受け入れて生きているうちに、いつのまにかどんな自分も愛しいと思えるようになっていた。
 

 そして自分がこの世界から無条件に愛されていることを実感できるようになっていた。
 その感覚こそが、ずっと欲しかったものだったんだよね。
 

 そう、わたしは無条件に愛されている。 
 

 そして、
 深く、優しいまなざしで、この世界を観ている自分に気がついた。
 

 心の中のセルフイメージが変わると現実が変わる。
 やがて女性として無条件に愛し、愛されるパートナーと出会って、いまは平穏な日々を送っている。
 

 愛され女子になるにはどうしたらいいですか?
 どうしたら祈りの心を育てることができますか?
 どうしたら自分を愛すること、パートナーを愛することができますか?
 そんな相談をよく受ける。 
 
 
 若い頃の、触れば火傷をするような女だった頃からは想像もつかない変貌だ(爆)。
 でも、そうだな、祈りも、愛され女子も基本は同じ。
 

 まず「幸せになるのは当たり前」だと決断しなさい。 
 自分の気持ちに気づきなさい。
 自分の気持ちに気づいたら、感じつつ、眺めてごらん。
 そしてどんな自分をも受け入れなさい。
 あなたはあなた自身の味方でありなさい。
 自分の望みを叶えてあげなさい。
 結果ではなく、その望みを叶えると決断し、行動した自分を褒めてあげなさい。

 

 この習慣を繰り返してゆけば、いつのまにかあなたが望んだものはきっと手にはいっているよ。
 

【サイト内参考記事】
信じる力
信じる力2014
 

2014年7月24日