体の中に宿るリアル
本物の声とは何だろう?
ちょっと専門的な話になるんだけど、自分にとっていちばん自然な位置で声帯を使えば自然な声を出すことはできる。解剖学的見地に立てばそれが自然な声ということになるんだけど、自然な声=本物の声なのかといえば、どうも違う気がするんだよね。
そもそも声とは何だろう?
私たちホモサピエンスの祖先が初歩的な言語を使えるようになったのは3万年前だといわれている。一方、認知考古学者のスティーブン・ミズンによれば、ネアンデルタール人は言葉を持っていなかったが、声の抑揚やリズムで仲間内のコミュニケーションをとっていたらしい。ちなみにネアンデルタール人はホモサピエンスが広く分布してゆくのと相反するように3万年前を境に滅亡していった。
ネアンデルタール人の例をみるまでもなく、私たちの祖先も複雑な言語を使いこなせるようになる前の段階で、声を使った簡単なコミュニケーションや喜怒哀楽を表現していた時期があったのだろう。やがて私たちの祖先は脳と声帯の発達によって、より高度な言語によるコミュニケーションが可能となり、それにともなって複雑な思考や感情を持つようになっていった。
わたしたちはなぜ話したり、伝えたりしようとするのだろう?
それはわたしたちが誰かと話すとき、伝えたい何か、表現したい何かがあるからだ。人間の赤ん坊は、お腹が空いた、おむつが濡れた、そばにいて欲しい、抱っこして欲しい、そんなときに泣く。人間はたったひとりでは生きられない。生まれたての赤ん坊は生きてゆくうえで繋がりが必要であることを知っているんだよね。
私たちの体の内側には感情があり、言葉にならないさまざまな思いや衝動があり、命そのものともいえる情熱がある。その奥には豊かな自分の中心ともいうべき深みが広がっている。それはまさに混沌であり、原初的な存在そのものであり、聖なる響きそのものだ。自分の中にあるそれが熟し、この世界と繋がりたいと望んだとき、体の奥から声があふれる。それは混沌を形にして体の外に向かってアウトプットする作業にほかならない。
わたしはここにいるよ、と。
たったひとりで世界のただ中に存在し、風を感じ、草を感じ、大地を感じ、生き物たちを感じる。
心が動く。
一緒にいること、共にいることを感じたい。
それが声であり、うたであり、言葉なのだ。
声にはつながりを取り戻す力がある。
たとえば「嬉しい」という言葉はただの記号だ。
けれど自分自身の体の奥にある思いや情熱や自分自身の中心といったバックグラウンドを感じて、言葉を吟味しながらその思いにぴったりな言葉を選び、声にのせて表現したとき、「嬉しい」という言葉は豊かな命を持つ。それはたんに記号ではなく命そのものですらある。
混沌とした体の中のさまざまな思いは、それを意識的に感じてあげないかぎり、猛獣を飼っているようなものだ。それを感じ、ともにいることを受け入れて、はじめて「自分」は自分の中の猛獣とともに生きることができる。混沌は声という通り道をとおって意味と形をもち、この世界で居場所をみつけ、豊かなつながりを創りだす。
機能的に声帯を調整したり、上手に声を出したり、歌ったりすることはそれほど難しくない。けれどそこに自分の内側にある聖なる混沌とのつながりがなければ、それはそのひとのリアルを伝えてはいない。わたしたちのリアルはツールである言葉や歌ではなく、その源泉である体の内側にあるからだ。
都市生活を続けていると、自然の一部である自分の体やその奥にある制御しづらいエネルギーをつい忘れがちになる。自分の内側に意識を向け、感じ、受け入れたときの声はきっと本物の声に違いない。わたしはそんな声を聴くとき、その声の向こう側にある豊かな世界を垣間見た気がして心が動く。そのとき、世界は何度でも生まれ変わる。
なぜならあなたの内側にこそ、この世界の卵が存在するのだから。
2013年2月22日
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