それは誰のため?
最近よく、神社に呼ばれるという話を聞く。
「呼ばれる」というのは、いわゆる精神世界用語(?)で、ようするに、ある特定の場所がとても気になったり、その場所にすごく惹きつけられてしまう精神状態をさすんだよね。なかには瞑想や祈り、あるいは夢などで直接「Come back」というメッセージを受け取るひともいる。
どちらにせよ、その場所から発生するエネルギーに心のチャンネルがカチっと合うと、結果的に「そこに行きたい」という気持ちになるんだよね。
さて神社に「呼ばれた」と感じた場合、だいたい反応は二種類に分けられるみたい。
1 ひとつは素直に呼ばれたことを楽しんで神社に足を運び、
おいしいものを食べてちょっぴり気持ちよくなって帰ってくるパターン。
2 もうひとつは神社に呼ばれたのは、自分になんらかの役目があるのだと考えて
神事をするというパターン。
1の場合はたっぷりと楽しんできてねという話なので、ここであえてとりあげる必要もないよね。というわけで、問題は2の場合。
そもそも神事って何だろう?
一般には神社や聖地と呼ばれる場所で、その地に住まう精霊あるいは神々に祈ることをさす。
じゃあ祈りとは何だろう?
祈りの対象となる存在はさまざまだけど、祈るという行為は、神仏に祈ると同時に、じつは自分自身の内側と向き合うことなんだよね。
もちろん神々とよぱれるエネルギー体やスピリチュアルな存在は実在するよ。祈っているとき、そうした存在に対する感謝や一体感を感じるひとも多いと思う。あるいはプロのシャーマンや僧侶・宮司の裏神事では土地の浄化などさまざまなエネルギー操作をする。
けれどそうしたプロであっても、祈りの本質は同じなんだよね。
神を通して、ひとは自分と向き合っている。
神に感謝をすることによって、自分を生かしてくれている自分自身の本質に感謝している。
土地を浄化するために神々のエネルギーを身のうちに通すことによって、自分自身の魂を浄化している。
あるいは報われない霊的な清めや払いをすることによって、自分自身の中にあるネガティブなものに反応する部分を浄化している。
たとえば瞑想や祈りのなかで、剣や珠・勾玉、鏡などをもらうことがあるよね。
あれは本当は神々からもらったわけじゃないんだよね。もともとすべての人間はそうしたものを持ってこの世に生まれてくる。だけど多くのひとは、自分の中にそうした剣や珠に象徴される質のエネルギーを持っていることに気づかない。
祈りや瞑想などの最中に神々からそうしたものをもらうという、いわばイニシエーション(通過儀礼)の意味するところは、自分の内側の剣あるいは珠に気づきなさい、ということなんだよね。
祈りと自分の内面の深さが密接に結びついている以上、祈った瞬間の心の深さによって、アクセスできる神々や精霊の段階が決まってくるのは言うまでもない。
たとえば同じようにアマテラスさまに祈っても、アクセスするアマテラスさまの段階はひとによって大きく違う。
つまりどれだけ深く祈ったかによって、ひとに近い波動のアマテラスさましかキャッチできない場合もあれば、まばゆい光としか感じられないアマテラスさまを感じる場合もあるだろう。
神々は「自分」という鏡に映る。その鏡の精度や正確度はひとそれぞれ違うからだ。
神仏の存在を否定した織田信長は、鏡に映る自分の姿に祈っていたというけれど、これはある意味真実なんだよね。
たぶん信長はエゴを超えた無意識のさらに深層に住む自分の魂と向き合いたかったのかもしれないね。その信長の心を映した鏡には、どんな神が見えていたんだろう。
神事の本質は自分の魂に通じる道を拓いてゆくことだなんていうと、じゃあ土地を鎮めることは人のためではないの? と思うかもしれない。
結果的にはひとのためになる。
でもその神事にかかわることを選んだのは自分。
その神事をすることによって喜びを感じたのも自分。
その神事によって、より力を得たのも自分。
つまり自分の喜びがまず最初にあるんだよね。喜びを感じることができるなら、他人からの見返りなんて必要ないよね。だってすでに「喜び」というプレゼントをもらっているわけだから。
お遍路さんってあるよね?
四国48箇所めぐりとかね。あれは霊場めぐりという旅をするなかで自分自身の心を見つめ、魂の浄化を目指しているんだよね。自分の中にある神性を発見してゆくという意味では神事もそれと変わらない。あちこちの神社に行って祈ることによって自分自身を見つめ、エゴを超えたより深い自分の本質を理解してゆく。それはちょうど人生という旅と似ているかもしれない。
誰かのために、世界のために、という気持ちで行動しようとするとき、ひとは感謝を忘れがちになってしまうんだよね。
やってあげたのに・・・とか、お役目だからとかね。
知らず心に傲慢な気持ちや恩着せがましい思いが芽生えてしまう。
あるいは自意識が肥大して特別意識にとらわれてしまったりね。
お役目意識や使命感が強すぎると、往々にしてそうした方向に意識がぶれやすい。始末の悪いことに、無意識のうちに芽生えた慢心は自分ではなかなか気づきにくい。そしてそういう視点で神事をしていると鏡が曇り、しだいに周囲との歯車がかみ合わなくなって、はじめて気づく。
あれ? なんか流れがへんだぞってね。
そんなときは、もういちど原点に立ち返ってみるといい。
それは誰のため?
2004年3月19日
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