「ーーーー自分なんていなければよかった。そうしたら両親はあんなに喧嘩しなかったのに」
しぼりだすような声でそう言った彼女の肩がかすかにふるえた。
やがて低い嗚咽が部屋のなかにもれた。
生活苦による両親の不仲など、さまざまなことで幼ない子どもたちは心を痛め、自分を責める。自分がもっといい子にしていればお父さんとお母さんは喧嘩しなかったかもしれない。かれらは心の奥の悲しみを押し殺して、自分は親の笑顔を取り戻すために生きようと決心してしまう。
けれどほんとうはそれは親自身の問題であって、子どもたちの問題じゃない。客観的にみて経済的に苦しいという状況があったとしても、すべての夫婦が不仲になるわけじゃない。不満や相手を責める気持がでてきたら、自分のその気持をじっくり見つめることで自分自身を知るチャンスなんだよね。そのうえで力を合わせて状況を乗り切ろうとする夫婦もいるし、そうすることで家族の絆はより深まる。
反対に自分自身のエゴに気づくこともなく、相手を責めていがみ合うという選択をしたのなら、それは誰のせいでもない、かれらは自分たちに与えられた最高のチャンスを生かせなかったということ。ようするに起きてくる物事にはそれ自体には幸・不幸はない。ただ事実があるだけ。それをどう捉えてどう意味づけしてゆくかは、わたしたち人間しだいなんだよね。
冒頭の彼女の場合もそうだった。
生活苦による両親の不仲。それを見て育った彼女は無意識に自分は存在価値がないと思いこんでしまった。自分さえいなければ両親が借金をすることもなかったし、そうしたら夫婦喧嘩をすることもなかった。
存在価値の否定。
これは子どもにとっていちばんきついメッセージなんだよね。子どもたちは自の心が崩壊するのをふせぐために、自分の本当の気持ちを感じることをやめてしまう。それがおとなになって、さまざまな悩みや苦しみの原因になってゆく。
彼女はだまって泣きつづけた。
どのぐらいそうしていただろう。
自分さえいなければ。自分なんて生きる価値がない。絶望的な思いをフォーカシングで感じてゆくうちに、彼女のなかでかすかな変化が起こりはじめた。最初は打ちのめされた感情とは別のちいさな波のような気配。やがてそれは言葉にならない大きなうねりのような強烈なエネルギーにかわっていった。
でもわたしは生きている。
それでも
わたしはここにいる。
死にたくない。
死にたくない。
だって生きている。
生きたい。
生きたい!
生きたい!
生きたいーーーー!!!
彼女は涙でくしゃくしゃになりながら声をあげて泣いた。
これまで彼女は生きのびるために心を殺し、自分の感情から目をそらし続けてきた。幼い彼女が安全に感情を感じる場が身近になかったことを考えると、感情を殺すことは生きのびるためにベストの選択だったんだよね。
けれど彼女のなかの幼かった頃の無価値感・絶望感といった感情はもう解放されたがっていた。
なぜなら彼女の心はそれを感じても壊れないほどに強くしなやかに育っていたから。
セッションのなかでその解放が起きたのはベストタイミングだった。彼女ははじめて自分の内側にある生きようとする力を実感した。それは夢や希望や目標や現実的な変化といった、あらゆる創造的なものを生みだす生命力に満ちていた。
ひとしきり泣いて、ようやく彼女は顔をあげた。
「自分がこんなに生きたいと思っていたなんて知らなかった」
そう言った彼女の顔は生き生きとした力に満ちていた。
誰もが彼女と同じ生命力をもっている。けれど多くのひとは自分のなかのその力に気づかない。病気、物理的な生命の危険や精神が極限状態に置かれたときにはじめて自分の内側に眠っている「生きようとする意志と力」を自覚するんだよね。
もしもいまつらいと感じているなら、それはチャンスだよ。あなたのなかのクリエイティブな生きる力は、あなたが心の扉をひらいて見つけにきてくれるのを待っているのかもしれない。