本当の自由

 多くの人々は自由ではなく、じつは支配されることを望んでいる。 
 なぜなら精神の牢獄にとらわれている人々にとって自由とは苦痛が伴うものだからだ。

 一般的に自由が大事だと思われているけれど、じつは私たちの多くは本当の意味での自由を望んではいない。たとえば好きなファッションをしたり、好きな職業に就いたり、好きな時間に好きな場所に行くことは社会上の暗黙のルールに払拭しない範囲での自由であり、本質的な自由とは違う。一見常識から外れた行動や感情的な言動をとることもまた本質的な自由とは違う。むしろ感情や思い込みにとらわれているという意味では牢獄にとらわれたままだ。
 真の自由の獲得は精神の自由から始まる。
 いつでも好きな時に特定の感情にどっぷり浸かることもできれば、それらと自在に距離を置くこともできる。つまり感情からも、思考からも、感覚からも自由であることが真の自由を獲得した状態だ。表面的に静かな状態であっても、その精神は遥かに自由であることは多々ある。
 こうした自由な精神を持ってこの世界を生きる時、わたしたちは誰に仲介されずとも、直接この宇宙の深い愛を感じ、育まれていることを実感することができる。
 根底のところでこの世界を肯定できると言い換えてもいい。
 
 だから自分で考えて、自分で決めて、その結果を自ら引き受けることができるわけだ。
 たとえそれが世間の人々から支持されなくても、失敗に終わったとしても、何があっても自分自身でいることができる。なぜならどんな自分であっても、この世界を育む大いなる力から無条件に愛されていることを知っているからだ。
 ところが本質的な精神の自由を獲得していないひとはGoかStopか、いま幸せかそうでないかを判断するとき、自分自身の内側から湧き上がる答えを待つのではなく、親から刷り込まれた古い思い込みや恐怖等の感情、世間や自分の所属している社会の常識に照らし合わせる。
 つまり宇宙の根底につながる自分自身の内なる答えを優先せずに、幼少時より刷り込まれた社会的な枠組みの中で正しいと思われる答を選択するのだ。もちろんそれはローカルルールでしかない。あるいは特定の感情の暴走に任せて選択すれば、それは感情の奴隷でしかない。その意味ではやはり不自由なのだ。
 ずいぶん昔、都会育ちの姪っ子を伊豆の保養地に遊びに連れて行ったことがある。近くを流れる川で遊ぼうと思って、姪っ子を外に連れ出して一緒に田舎道を歩いていると、はじめは物珍しそうにきょろきょろしながら歩いていた彼女が不意に立ちすくんだ。
 どうしたんだろうと思って彼女の視線を追うと地面を歩き回っているアリが目に入った。照りつけるような真夏の日差しのせいか、むっと土の匂いがする。アリたちはせっせと餌を探して歩き回っている。
「アリがいっぱいいるね。餌を探しているんだよ」
 どうやら都会育ちの姪っ子はこんなにたくさんのアリを見たことがなかったらしく、すっかり怖気づいて、突然、宿に帰ると言い出した。仕方なく宿に連れて帰ると、そのあとは部屋の中で持ってきたゲームばかりしていて、結局東京に帰る日までゲーム三昧でほどんど外にでなかった。
 慣れない環境の中で恐怖という感情が彼女の行動にストップをかけたのだ。好奇心やチャレンジという選択肢もあったはずなんだけど、それまでオートロック式のマンションに住み、常に親やおとなの目の届く範囲で安全に守られて生きてきた姪っ子の目には、その枠の外の世界はおそらく恐怖と不安を引き起こす危険な世界に見えたのだろう。
 真の自由を獲得しようとすれば、幼少期より刷り込まれてきた幾重にも重なる思い込みと真正面から向き合うことになる。自分の本当の望みから目をそらして生きてきたひとにとって、それはこれまでの人生を否定することにすらなりかねない。
 それくらいなら多少不自由でも誰かが決めてくれたルールにのっとって生きていったほうが楽だと思う人のほうが多いのだろう。日本にかぎっていうなら、天皇制をはじめとして戦後に出来上がった社会的なルールがそうだ。唯我独尊といったのは釈迦だと思うけど、唯我独尊でいられるほど自由で成熟した精神を獲得している人類はそう多くはないけど、それでも釈迦にできたんだから同じ人間。私たちにできないはずはない。
 戦後の社会構造の矛盾は2011年3月11日に起きた東日本大震災をきっかけにとっくに露呈しているはずなのに、わたしたちは壊れかけた社会構造にいまだしがみつこうとしている。社会が私たちの安全を担保してくれていると思い込んでいるならそれは幻想だ。
 じゃあ安全はどうしたら手に入るのだろう?
 簡単だ。
 本当の自由、精神の自由を手に入れることだ。
 ひとりひとりが本当の自由を手に入れたなら、あっというまに世界は変わる。
 愛と思いやりが戻ってくる。
 自分の人生を愛し、自由に生きているひとは他者の人生も自分の人生と同じように尊重できるからね。

 ホビット3「決戦にゆくえ」のラストシーンで、ドワーフの王であるトーリンが言っていた。
「誰もがお前のようにGoldではなく、家を大事にするようになれば世界はもっと住みやすいのだろうな」
 と。映画の中で、家とは愛と自由の象徴だ。
 トールキンがホビットを書いた時代は言うに及ばず、遥か古代から人類にとって愛と自由は課題だったのだろう。
 人類の歴史が戦いの歴史なら新しい時代を担うわたしたちがそれを塗り替えてゆけばいい。
 
 愛と自由の歴史へと、ね。
  2015年3月11日
  文責:キョーコ

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