サハラ・レクイエム 5

 お待たせしました。
 五夜連続小説完結編です。よけいな前置きはなしでいきましょう。
 

 『サハラ・レクイエム 5 』 
 
 
 5 正体
 

 ざくざく
 ざくざく
 

 無数の砂を踏む足音が、乾いた空気にのってつたわってくる。
 

(な……)
 

 声がでなかった。喉がひきつり、心臓の動悸が激しくなった。
 あいつらは、生きている人間を見たら、どう反応するんだろう?
 そう思ったとたん、高杉は悲鳴を上げて、その場から逃げ出したい衝動に駆られた。だが痺れて力を失った足はぴくりとも動かない。
 

 高杉は理性を失いつつある頭で、必死に考えた。奴らは無害のはずだ。すくなくとも、その場では生きている人間を殺さない。だからこそ目撃者は生き延び、この噂がひろがっていったのだ。その考えはかなり高杉に冷静さを取り戻させた。だが、もし奴らと目が合ってしまったら……?
 

 すでに、かれらはすぐそこまで来ていた。だがこの広い砂漠のど真ん中には逃げ出す場所などどこにもない。無意味に時が過ぎてゆく。いつのまにか、急速に冷え始めた足もとの砂から、ゆるゆるとまとわりつくような冷気が這い上がってくる。
 

 高杉は腹をくくった。状況がわからず妄想だけがふくらんでゆくよりは、目の前で何が起ころうとはっきりと自分の目で確かめるほうが、はるかに楽だ。
 キャラバンの先頭の白いターバンを頭に巻いたアラブ人が足を引きずるようにゆっくりと近づいてくる。歩くたびに赤茶けた砂が舞い上がり、血のこびりついた、ぼろきれのような白い貫頭衣から痩せた足が見えた。高杉は身じろぎもせずに男を見つめた。首筋の毛が逆立ち、冷たい汗が背中を流れる。それでも高杉は男から目を離すことができなかった。
 

 すでに高杉と男の距離は三メートルも離れていない。男の息遣いがはっきりと聞こえてくる。乾いた血と死肉のもつ強烈な匂いが鼻先をかすめた。それは戦場で何度も嗅いだことのある匂いにかぎりなく近い。
 

(こんな……馬鹿なことが……)
 ふいに男はゆっくりと顔を上げた。高杉は喉の奥でひきつった声をあげた。男の虚ろな瞳が高杉をとらえた。
 


 一瞬、高杉は神に祈った。
 が、次の瞬間、男は高杉に関心を失った。どんよりとした澱みを思わせる濁った瞳は何も見てはいない。ただ何の意思もない人形のように、だらだらと歩いているだけに過ぎなかった。先頭の男は高杉の前をゆっくりと通りすぎていった。その後ろには無数の亡者たちがえんえんと列をなし、乾いた足音を立てて通り過ぎてゆく。
 

 しだいに高杉は落ち着きを取り戻しはじめていた。どうやら、本当にかれらは無害な存在のようだ。そうはいっても、突然邪悪なものに豹変しないという保証はない。高杉はかれらの関心を引かないように、注意深くかれらを観察した。
 白いターバンを巻いた若いアラブ人や丸い帽子をかぶりチョッキを着たクルド人とおぼしき兵士、そうかと思うと頭から黒いベールをすっぽりとかぶった女。青いターバンにガンドゥーラを身にまとったトアレグの戦士もいる。
 

 かれらはみな一様にうつろな表情を浮かべ、足を引きずるように砂の上を移動してゆく。腕のちぎれた女や頭の半分が吹き飛ばされて脳みそがこぼれている兵士、かれらは痛みも苦しみも感じているようすはない。あきらかにかれらは生きた人間ではなかった。だが幽霊にしては、かれらが発散する血と砂と死臭の入り混じった匂いや、無数の砂を踏む足音があまりにも生々しかった。
 

(まるで、ゾンビじゃねえか)
 

 ふと高杉は、これと同じような光景をどこかで見たことがあると思った。
(どこだったかな……たしかあれは……)
 ふいに、高杉の脳裏にずっと以前に見た、ある光景が浮かんだ。
 

 強烈な陽射しにさらされて、大勢の難民が歩いていた。ぼろきれをまとった老人や痩せて骨と皮ばかりになった赤ん坊をおぶった母親。長く続く戦火と虐殺の恐怖にさらされ、どの顔も一様に虚ろな表情を浮かべ、無言で国境に続く埃っぽい道を移動していた。
 

 そのなかに幼い少女を連れた若い母親がいた。背中に赤ん坊をおぶり、薄汚れた濃いピンク色の布を黒い肌にまとった若い母親は、少女の手を引いてなんとか列についてゆこうとしていた。だが飢えと疲労のために、すこしずつ列から遅れてゆく。とうとう彼女は最後尾になってしまった。
 

 それまでなんとかがんばって母親についてゆこうとしていた少女は、ついにその場にすわりこんでしまった。だが母親はうつろな表情で彼女を見つめたままだ。その顔には何の感情も浮かんでこない。やがて、母親は少女に関心を失ってしまったかのように、ふたたび集団のあとを追ってのろのろと歩きはじめた。少女は火のついたように泣きだした。だが母親はもはや何の関心も示さず、ゆっくりと少女から遠ざかっていった。
 

 亡者たちの表情は、あのときの難民の若い母親とそっくりだった。
 高杉は黙って亡者たちを見つめていたが、ふいに、おやっという顔をした。はじめはアラブ人などのサハラ周辺の国に住む連中ばかりのキャラバンだと思っていたが、よく見るとインドネシア人の若者やセーターにジーパンをはいたセルビア人の男もいる。それに迷彩服を着た褐色の肌の少女もいる。たしか以前スリランカに取材に行った時に会ったタミル人武装ゲリラの少女にそっくりだ。
 

 高杉は愕然とした。
 まるで、世界中のありとあらゆる戦場の死者が、ここサハラに集まってきたかのようだ。
 

 世界中の……?
 

 ふいに、ざわっと鳥肌が立った。
 

(どういうことだ……?)
 

 そのときだった。
 亡者たちに混じって、若い女の姿が見えた。
 高杉の目が大きくみひらかれた。
 バイク用の水色のモトクロスパンツに白いオフロードブーツをはいた若い女がゆっくりと歩いている。大地を一歩一歩踏みしめるように歩く彼女のせいで、あきらかにキャラバンの流れが乱れている。だが彼女はいっこうに頓着するようすはなかった。
 

 高杉は信じられぬものを見るかのように、呆然と彼女を見つめた。
 女はゆっくりと歩いてゆく。
 高杉は夢中で叫んだ。
 

「とも子!」
 

 亡者たちの群れにざわめきが走った。
 

「待ってくれ! とも子!」
 

 彼女の足が止まった。そして、ゆっくりと振り向いた。
 肩のあたりでぷつんと切りそろえた栗色の髪と、頬のあたりにあどけなさの残る顔。白いTシャツから伸びた小麦色の華奢な腕のさきには、見覚えのある青いミサンガが揺れている。
 

 そして、
 底知れぬ闇をたたえた、黒く艶やかな瞳――。
 

(……とも……子……)
 

 激しい衝撃に、高杉は言葉を失った。
 とも子は黙って高杉を見つめた。
 見覚えのある艶やかな瞳の中に、どこか野生の肉食獣を思わせる、妖しくきらめく光と、怒りとも悲しみともつかぬ、闇よりも深い暗黒が同居していた。それは、十七のとも子が決して知るはずのない闇の色だ。
 

 高杉は胸の奥からこみ上げてくる激しい感情をどうしていいかわからず、弱々しくかぶりを振った。
 

(おれは……おれは……)
 

 砂混じりの風が、とも子の栗色の髪をばらばらと舞い上げる。
 高杉のくちびるがかすかに震えた。
 ふいにとも子は高杉にくるりと背を向けた。
 

 高杉ははっとした。
 ふたたび亡者たちがのろのろと歩きはじめた。
「ま……待ってくれ! 行かないでくれ!」
 高杉ははじかれたように立ち上がった。足がもつれ、砂の上にぶざまにころんだ。あわてて立ち上がろうとすればするほど、感覚を失った足が思うように動かない。
 

 高杉はなりふりかまわず必死で砂の上を這った。とも子が亡者だろうが幽霊だろうが、そんなことはどうでもよかった。ずっと、とも子のことを忘れたことなどなかった。寂しいとも悲しいとも感じなかったのは、あまりにもそういった感情が強すぎて、自分の心と向き合うことすらできなかったからだ。
 だが、彼女を見たとたん、それまで必死でこらえてきた感情が堰を切ったようにあふれだした。
「……たのむから……」
 高杉の口から絞りだすような声が漏れた。
 

「もう、おれを……おれを、ひとりにしないでくれ……!」
 

 ふいに――
 とも子が、ゆっくりとこちらを向いた。
 高杉ははっとして、顔をあげた。
 

(あ……)
 

 高杉は砂の上にすわりこんだまま、呆然と彼女を見つめた。
 とも子がゆっくりと近づいてくる。白いブーツのつま先が赤茶色の砂にまみれ、歩くたびに細かい砂があたりに舞う。奇妙な空気が漂うなかで、かすかに砂を踏む音が聞こえてくる。
 

 やがて彼女は高杉の前までくると、だまって高杉を見下ろした。
 高杉は信じられぬというように、大きく目をみひらいたまま、とも子を見つめた。
 

「……おれは」
 それ以上、言葉にならなかった。
 とも子の艶やかな瞳がじっと高杉を見つめた。その瞳の奥に、闇よりも深い暗黒の深淵が横たわっているのが見えた。
 

(……とも……子……)
 

 それは、とも子でありながら、とも子ではなかった。とも子のなかに入り込み、とも子の魂の一部となってしまった別のものが、じっと高杉を見つめている。それはもはや、この世の生き物ではありえなかった。それでも、高杉は魅入られたように、その瞳から目をそらすことができなかった。
 

 とも子は口の端に、かすかに笑みを浮かべた。
 あらがいがたい快楽のかすかな予感とともに、まるで電流が流れたように体の芯がゾクリと痺れた。生きていた頃のとも子ならこんなふうに笑ったりしなかった。指先が痺れたように、ぴくりとも動かない。
 

 とも子は静かに砂の上に膝をついた。そして、ゆっくりと高杉のくちびるに顔を近づけた。
 甘い吐息が顔にかかる。
 高杉はなすすべもなく、とも子を見つめた。
 彼女のくちびるが触れた瞬間、おれは死ぬんだな……と高杉は思った。それでもかまわなかった。彼女の瞳に宿る、かぎりなく深い闇を見たとき、高杉はすべてを理解してしまった。
 

 サハラというのは古代から、何万年もの気の遠くなるようなサイクルで乾燥と湿潤を繰り返してきた。そのたびに、幾多の文明が栄えては滅び、あるいは極度の乾燥のために植物が死に絶え人々が土地を捨てたときもあった。
 

 この地で死んでいった無数の生き物の体は腐食するまもなく乾き、やがて細かな砂粒に還っていった。赤茶色の砂粒ひとつひとつに、この土地で生きた人々のささやかな思い出や喜び、あるいは深い嘆きや暗い欲望が染みこんでいる。だから、赤茶色の砂がさらさらと風に舞うとき、この地で死んでいった人々のさまざまな思いもまた、行くあてもなく漂いつづける。
 

 サハラとはそういう場所なのだ。そして、ときに命はいくつもの偶然と無数の魂魄たちの意志によってこの世に生み出される。だからこそサハラは、死そのものでありながら、命を生む可能性をつねにその広大な胎内に孕んだ場所なのだ。
 ところが人間のかぎりない欲望や悪意によって殺された無数の人々の無念の思いが、ある一定量を越えた時、サハラに渦巻く蓄積された負の感情というエネルギーに引き寄せられるように、突然死者たちの魂がこの地に集まり始めたのだ。無念、悲しみ、怒りや恨み、そうした人々の思いが、亡者たちの魂に力を与えていった。かれらは、今はまだ明確な意志を持たず、ただ砂漠をさまようだけの存在でしかない。だがこの先もそうであるかどうかは、誰にもわからない。
 

 そして、とも子もまた、サハラの怨念にも似た闇の力によって生まれた。 高杉の、とも子を失いたくないという強い思いが、彼女の魂を地上に縛りつけてしまったのだ。そして十五年前のあの日、サハラの砂の中にとも子の魂の宿るミサンガを捨てたときから、とも子はひとでもなく、死者でもない、限りなく闇に近い存在としてこの世界に生まれてしまった。
 

 とも子の瞳に宿る深い闇は、彼女が、かつての彼女とはもう違うのだということを明確に物語っていた。それでも高杉は、目の前のとも子、いや、かつてとも子であった存在を愛している自分に気づいてしまった。
 おれは、最後までおまえを守ってやることができなかった。
 

 ――おまえを救ってやることができないのなら……おまえの痛みも悲しみも、おれが背負うよ。
 

 高杉は静かに目をとじた。
 すぐそこで、やわらかな、とも子の気配がする。それはなつかしく、何よりも大切なぬくもりだった。
 ……とも子。
 ふいに、高杉の耳もとで、とも子がそっとささやいた。
 

(……え?)
 

 そして、とも子の気配が、ふっと遠のいた。
 高杉ははっと目をあけた。その瞳が、信じられぬものを見るように大きくなった。
 赤い地平線のかなたへ、ゆっくりとキャラバンが遠ざかってゆく。
「あ……」
 

 ざくざくざく
 ざくざくざく
 

 ゆっくりと沈んでゆく巨大な夕日が、空も大地も一緒くたにして真っ赤に染めていた。かれらの、まるで影絵のような黒い姿はひゅるひゅると風に吹かれて、なんだか踊っているように見えた。高杉は、無数の足跡を残して、しだいに小さくなってゆくキャラバンを呆然と見つめた。
 

「な……ぜ……」
 あのとき、とも子はこう言った。
 

 ――いずれ……死が世界をおおう。そのとき、ふたたびあなたに会いにくる。もしも、あなたに生きる価値があるのなら。
 

 激しい喪失感が襲った。
 高杉は打ちのめされたように、力なく砂に手をついた。
 その肩が小刻みに震えた。
 

 風が強くなりはじめていた。砂混じりの風がぱちぱちと叩きつける。東の空をおおっていた雲が近づき、あたりはごうっという音とともに、急速に暗くなりはじめていた。あといくらもたたないうちに砂嵐が来るだろう。
 

 ふと、さらさらしたやわらかな砂の感触に混じって、指先に何かがふれた。高杉はのろのろとそれを拾いあげた。
「ミサンガ……?」
 高杉の目が、みるみる大きくなった。
 それはすっかり色褪せ、寄り合わせた紐もあちこち擦り切れてぼろぼろだったが、あの日、高杉がこの場所に捨てたものに違いなかった。
 

 高杉は砂だらけのミサンガをじっと見つめた。
 まるで、たった今までとも子の腕に結ばれていたかのように、まだかすかに彼女のぬくもりが残っていた。
 

 ――とも子……。
 

 彼女はとも子であると同時に、サハラをさまよう無数の魂たちの無念の思いが生み出した存在だ。だから高杉を殺すことなど造作もなかったはずだ。だが、彼女はそうしなかった。それは彼女の中に、まだ彼女がとも子であった頃の、高杉への思いが残っていたからだと、高杉は信じたかった。
 

 ……ときどき、夢をみるの。
 

 夢?
 うん。みずみずしい緑におおわれたサハラに、命がいっぱいあふれている夢……。
 

 長いこと高杉は手のひらの、ちいさなミサンガを見つめていた。
 風が鳴っている。
 

 やがて、高杉は顔を上げると、砂の上にころがっている乾いたナツメヤシの枝に手を伸ばした。高杉は黙ってそれをつかむと、ぐっと砂に突き立てた。そして渾身の力を振り絞って立ち上がった。全身の骨がきしみ、砂だらけの顔が苦痛にゆがむ。だがその瞳は、はっきりと生きる意志をもって、夕日に染まった地平線のかなたを見つめている。
 

 かならず、生きてアタールへたどり着く――。
 高杉真一はゆっくりと歩きはじめた。
                   (了)
2007年8月18日 

 
 

◆サハラ・レクイエム・シリーズ◆
サハラ・レクイエム 1
サハラ・レクイエム 2
サハラ・レクイエム 3
サハラ・レクイエム 4
サハラ・レクイエム 5

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サハラ・レクイエム 5」への8件のフィードバック

  1. め☆

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    おわっちゃったね(><) 私もともこちゃんの残った思いが高杉君の命をとらなかったんだと 信じたいよ。 ともこちゃんそのものの魂は、いったいどうなっちゃったんだろう。。 いろんな霊的現象を見てきてるキョーコさんならではの 無数の魂の集まった存在になってしまった ともこちゃんを書けたんだね。 う~ん。 おもしろかったよ~。ありがとう☆

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  2. そうてつ

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    ん~どきどきして猛スピードで読み進めてしましました。 面白かったです~

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  3. ゆきんこ

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    ともこのみずみずしい緑におおわれたサハラに、命がいっぱいあふれている という願いが高杉に託され、本人にも生きる目的を持ったのでしょうか。 内容がファンタジーでも情景が何故かリアルに感じられました。 面白かったです。 ブログへのご訪問ありがとうございました。 また、更新しましたがこれからも不定期に更新すると思います。 気が向いたら遊びに来て下さいね。

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  4. キョーコ

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    め☆ちゃん 読んでくれてありがとう~♪ ほんとうはこの続きは頭の中にあるんですよ。 ただ書くのなら取材が必要なので放置してあるんです^^

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  5. キョーコ

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    そうてつさん ありがとうございまーす! そう言ってくれると、ほんとにうれしいです!!

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  6. キョーコ

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    ゆきんこさん ありがとうございます。 >内容がファンタジーでも情景が何故かリアルに感じられました。 うれしいです。そう感じていただけたらアップした甲斐があります。個人的には近未来SFのつもで書いていました^^ またサイトのほうに遊びにいきますね。 イラスト、楽しみにしています。

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  7. め☆

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    お~、おかえりなさい^^ つづきがあるんだ! それは是非とも読みたい! とも子ちゃんの最後の言葉の意味がナゾすぎるし。

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