ヒーリングソウル

Healing Soul サイコシンセシスとフェルデンクライス・メソッドを使ったメンタルコーチのブログ。心と体のいい状態を見つけてみない?

サハラ・レクイエム 3

 今日は京都の五山の送り火だね。黒龍のビジョンをみたときに見えたのも赤々と燃える『大』の文字だった。
 大の文字のルーツを調べていたら、「観光・京都おもしろ宣言」というサイトにこんなことが書いてあった。東山区の六波羅蜜寺の萬燈会では本殿の前に大の字型の棚を置き、灯のついた小皿を乗せる。このとき大は自然界にある、風・水・火・土・空の五大元素を意味し、自然への畏敬と祖先を思う気持ちの象徴なのだという。
 サハラもかつては多くの人々が住み、緑の豊かな土地だった。人々は何を思い、何をよりどころに生きていたのだろう? かれらもまた人を愛し、遠い祖先に思い馳せたのだろうか。サハラの砂は黙して語らず、乾いた風だけがとおりすぎてゆく。
 というわけで『サハラ・レクイエム』第三弾のお届けです。
 
 『サハラ・レクイエム 3 』
 3 シンゲッティ
 濃紺色の東の空に青白い星がまたたいている。
 高杉は西サハラの国境の街ダクラに隣接するキャンプ場にいた。夕闇の迫ったキャンプ場には、あちこちから肉や野菜を煮込むうまそうな匂いや、強烈な香辛料の香りが漂ってくる。頭にターバンを巻いた陽気なモロッコ人が、国境を抜けると砂漠地帯になるから絶対ガイドが必要になる。だからおれを雇えと、夕飯の骨付き肉をほおばっているイギリス人むかって、早口のフランス語でまくしたてている。そうかと思うと、ハロゲンライトの明かりを頼りに車の下にもぐりこんで、修理に専念しているドライバーもいる。
 ここダクラのキャンプ場はサハラを旅する人間にとっては、水や食料などの補給基地であると同時に、重要な情報収集の場でもあった。今にも壊れそうなおんぼろシトロエンにサーフボードを積んだ陽気なフランス人の二人組。厳重な警戒をものともしない商人や一癖もふた癖もありそうな運び屋の男たち。あるいは西アフリカの国々に中古車を売りに行くドイツ人。そしてまた、国境を越えるために同乗させてくれる車を探すヒッチハイカーたちもいる。
 ――ハルマッタンとともに、亡者たちのキャラバンがやってくる。
 昨年の暮れにその話を聞いてからすでに四ヶ月がたつ。高杉の決断は早かった。二十代の時にサハラを走って以来、ずっとシートをかぶせたままになっていたSXを引っ張り出し、カルネだのパスポートだのの手続きをしつつ、たまった仕事を片っ端から片付けているうちに、あっという間に四ヶ月が過ぎた。
 長年放置していたSXはあちこちガタがきているし、自分自身の体力も二十代の頃のようにはいかない。過酷なサハラのオフロードランに体がついていけるかどうか不安がないわけではなかったが、その噂が本当なのかどうか、実際にサハラに行って、自分の目で確かめてみたい気持ちのほうが強かった。
 高杉は出発間際に山崎に電話をかけた。例の、サハラの亡霊をその目で見たという中田という男に直接会って話が聞いてみたかったからだ。だが山崎から返ってきたのは予想外の答えだった。
「奴は、死んだよ」
 受話器のむこうで、山崎はうつろな声でそう言った。
 そんなわけで、高杉がSX200Rとともにダクラに着いたのは、四月も半ばを過ぎてからだった。すでに砂漠地帯は酷暑の季節をむかえていた。
 すっかり日の落ちたキャンプ場のまわりは漆黒の闇につつまれ、昼間の暑さがうそのようにひんやりとした空気がただよっている。サハラ越えをする旅行者の集まるキャンプはどこもそうだが、キャンプ全体がひとつの大きなファミリーという雰囲気がある。


 ダクラのキャンプも例に漏れず、明日の朝、国境越えのコンボイが出発するため、それぞれドライバーたちが腕によりをかけて作ったお国自慢料理が即席の屋台に並び、キャンプ場はちょっとしたお祭り気分だ。
 西サハラは現在モロッコ軍の統治下にあるが、もとはスペイン領だった。一九七四年スペインが撤退して以来、独立かモロッコ帰属かでもめており、一九九一年にとりあえず停戦というかたちで双方合意をしたものの、西サハラ解放戦線とモロッコ軍が対峙した緊迫状態が今も続いている。
 そのため出入国が厳しく制限されており、旅行者が国境を越えてとなりのモーリタニアに行くためには、週二回出発するコンボイに参加し、モロッコ軍に先導されて地雷原の真ん中をまっすぐに伸びるハイウェイを走らなければならない。
 高杉は夕食どきの活気に満ちたテントのあいだを縫って、顔見知りのフランス人のところへ行った。
「ピエール」
 中古のシトロエンのすぐ横にしゃがみこんで、ぐつぐつと煮立ったポークビーンズの鍋をかき混ぜていた、がっしりとした体格の男が振り向いた。彼は高杉を見ると、ひげ面にとびきりの笑みを浮かべて歓迎するしぐさをしてみせた。
「真一、バイクの調子はどうだ?」
「いいよ。そっちはどう?」
 高杉はたどたどしいフランス語で答えた。高杉のフランス語は十五年も前にサハラに行くために即席で覚えたものだからかなり怪しい。ちょっと難しい話になると英語とフランス語、それになぜか現地で聞きかじったアラビア語と日本語がチャンポンになる。
「完璧さ」
 ピエールは茶目っ気たっぷりにウインクした。
 はじめてピエールと出会ったのは十五年前、サハラ砂漠を縦断したときだった。タマンラセットからアガデスまでの無人の砂漠のど真ん中で、バイクのガソリンタンクが空になって立ち往生していたピエールにガソリンを分けたのが縁だった。
 その後、高杉はバイクから離れてしまったが、ピエールのほうはバイクから車に乗り換えて、何度もサハラ越えに来ていたというから相当のつわものだ。年齢は高杉とたいして変わらなかったはずだが、国に帰れば、気立てのよい、太った女房と十歳になるかわいい娘がいるという。まさか十五年ぶりのサハラで再会するなんてお互い考えてもみなかった。
「真一、例の噂は本当だと思うか?」
 ピエールはクーラーボックスから缶ビールを出すと、ぽんと投げてよこした。
 礼を言って受け取ると、遠慮なくプルトップをあけた。プシュッと音がして白い泡があふれる。
 高杉はぐいっとビールをあおった。ひさしぶりの冷たいビールだ。高杉は口の端についた泡を手の甲でふきながら答えた。
「どこへ行っても、その噂で持ちきりだ。あんたなら、知ってると思った」
 ピエールはお手上げだとでも言うように、大きく両手をひろげてみせた。
「マラケシュの酒場で知り合ったアラブ人も言っていたよ。運悪く、奴らを見てしまった友達が何人も死んでるってね」
 高杉もモロッコに着いてから、あちこちでこの噂を聞いていた。耳に入ってくるのは、どれも不吉な話ばかりだったが、かれらの話をまとめると、どうやら亡者たちのキャラバンが出没するのはモーリタニアからマリにかけての一帯、とくにシンゲッティより東の地域に絞られているようだ。
 それに青いミサンガの女の噂は、アラブ人たちの中ではかなり広まっているようだ。うつろな表情の亡霊たちにくらべて、まるで生きているかのように振舞う東洋人の女。昼間、ダクラの町に買出しに行った時のことだった。頭にターバンを巻いた市場の老いたアラブ人は彼女の話になるなり言った。
 ――ジャポネ。彼女が死を引き連れてやってくる。悪いことは言わない。モーリタニアに行っても、シンゲッティには行くな。
 そのとき高杉は、老人の目の中に、はっきりと畏怖の色が浮かんでいるのを見た。ふと高杉は、かれら砂漠の住人にとって、青というのはトアレグの青とつながる特別な色なのではないかと思った。
 トアレグというのは青い種族とよばれ、サハラの中部山岳地帯に分布する遊牧民だ。かれらは青を好み、ターバンやガンドゥーラとよばれる貫頭衣にも藍色の顔料を染みこませた布を使う。この顔料が肌と擦れるたびに、かれらの白い肌に付着して、まるで生まれたときから青い肌であるような錯覚を、見るものにあたえる。かれらの生産手段は遊牧と奴隷の売買、そして略奪であり、かつては何百年もの長きにわたってサハラ全域を支配してきたが、一九〇〇年代にはいってフランス軍に鎮圧された。
 現在は、かれらの、その閉鎖性ゆえに近代文明から取り残されて、サハラの山岳地帯などで細々と暮らしている。だがサハラの住人たちの血に染みこんだトアレグに対する恐怖は強く、今もトアレグにまつわる話はいわれない偏見や畏怖に満ちていた。
 だから突如としてサハラに現れ、かれらを恐怖に陥れた亡霊たちのキャラバンの主ともいえる女の腕に巻きついていた青いミサンガの噂は、かれらの体に流れる、先祖から受け継がれた恐怖の記憶と重なり、畏怖の象徴として、またたくまに広がったのかもしれない。
「おかげで、国境はそうとうピリピリしてるって話だ」
 ピエールはケチャップのよく効いたポークビーンズをお玉ですくうと味を見た。
「だろうな」
 言われるまでもなく高杉も紛争が始まる直前の、きな臭い匂いを感じ取っていた。
 ピエールは豆とじゃがいも、それにぶつ切りにした羊の肉がたっぷり入ったポークビーンズを皿によそうと、高杉にすすめた。
「今朝、市場で仕入れてきた豆だ」
「メルシィ」
 高杉は地面に置いてあった砂だらけの日干し煉瓦の上に腰をおろした。ちょっと硬いが、椅子がわりにちょうどいい。
 高杉は羊のぶつ切りをスプーンですくって口の中に運んだ。羊特有のちょっと臭みのある硬い肉とトマトソースの酸味が絶妙のコンビネーションだ。さすがに何度もサハラ越えを経験しているだけあって、ピエールの野外での料理の腕はかなりのものだ。
「フランスがトアレグにてこずったのと同じさ。奴らはアラブ人の古い血を呼び起こす。恐怖は容易に宗教や民族の帰属意識と結びつくからな」
「なるほど」
「おれたち旅行者にとっちゃ、いい迷惑だ」
 すぐ隣にとめてあるプジョーの横で、若いイタリア人が調子っぱずれのカンツォーネを歌いだした。
 それは故郷を遠く離れ、戦場に赴いた男の、故郷に残してきた恋人への思いを歌った唄だった。ずっとむかし、そんな内容のフランス映画を観たような気がする。美しいメロディーだが、いかんせんかなり音程がはずれている。もっとも、陽気なイタリア人にとっては、そんなことはあまり関係がないのだろう。
 ふたりとも思わず顔を見合わせた。
「なあ、真一」
 ピエールは皿に残ったトマトスープをきれいに平らげると、折りたたみ式のテーブルに皿を置いた。
「ん?」
「なぜ、そんなに、青いミサンガの女にこだわるんだ?」
 思いがけない言葉だった。自分ではそんなつもりはなかった。もちろん、その女がとも子かもしれないという、期待とも不安ともつかない感情が自分の中にあるということは、高杉もうすうす気づいていた。だからといって、必要以上に青いミサンガの女にこだわったつもりはなかった。だがピエールの言葉は意に反して高杉の心をえぐった。
 高杉は狼狽したように、わずかに視線を宙にさまよわせた。
「おれは……」
 高杉はぶっきらぼうに言った。
「べつに、こだわっちゃいねえよ。……ただ、友達の知り合いがサハラでそいつを見てから、しばらくして死んだ。だから、その噂に興味があるだけだ」
 高杉はなかば叩きつけるようにそう言って立ち上がった。
「それだけか?」
「ああ、ほかに何がある?」
 ピエールは鋭い視線を高杉に向けた。
 高杉はむっとして、ピエールを見返した。
 ほんの一瞬、ふたりの視線がぶつかったが、さきに視線をはずしたのはピエールのほうだった。
「おまえの噂は知ってるよ」
 高杉ははっとした。
「日本のカミカゼ、不死身の男ってね」
 知っていたのか、と高杉は思った。べつに隠すつもりもなかったし、非難されるようなことをした覚えもない。ただ、ピエールがなぜ自分の噂を知っていたのか不思議だった。
 ピエールの答えは明快だった。
「たまたまダカールで知り合ったジャーナリストが言っていた。おれたちは紛争と聞けば世界中どこへでも、すっ飛んでいく。イラク、ボスニア、インドシナ――。そこでいつも顔を合わせる日本人がいるって言うんだ。どんな奴だって聞いたら、そいつは誰もがしり込みするような場所でも平気で出かけていくんだそうだ。そして、何があっても必ず生きて戻ってくる。……たとえ、ほかの奴が全員死んでもね」
 高杉は苦笑した。
「ひでぇ言われようだな。そいつは、かなり誇張と誤解が混じってると思うよ」
 ピエールは肩をすくめた。
「そう信じたいね。もし奴のいう通りの男なら、サハラのど真ん中で、おれにガソリンを半分も分けたあげく、一緒にドライアウトしかけるような馬鹿なまねはしないからな」
 思わず高杉はニヤリと笑った。
 ピエールもつられて笑い出した。
「おぼえているか、真一」
ピエールはなつかしそうに言った。
「あの頃、青いミサンガがおまえのトレードマークだったよな」
「ああ、よくおぼえてたな」
 高杉は笑った。
「あたりまえだ。おれたちサハラに取り憑かれた人間のあいだじゃ、おまえのミサンガは有名だったからな」
「なんでだよ?」
「ジャポネのミサンガ――けっこうエキゾチックに見えたのさ。おまえは、むかしから何かしら、ひとの想像力を掻き立てるものを持っていたからな」
 高杉は意外そうな顔をした。
「そいつは、知らなかったよ」
「最後におまえと会ったのはどこだったかな……」
「ダカールだろ?」
「ああ、そうだった」
 ピエールはぽんと膝を叩いた。
「あの時はもう、おまえの腕にミサンガはなかった。だから、きっと願いが叶ったんだろうと思っていたよ。それが何なのか、尋ねたこともなかったけどね」
 ピエールは古い友人に再会できたことが心底うれしいというように微笑んだ。
 高杉は胸にかすかな痛みを感じた。
「……捨ててきたんだ」
 ピエールはちょっと驚いたように顔をあげた。
「どこへ?」
 わずかな沈黙のあとに、高杉はぽつんと言った。
「――シンゲッティの東」
 翌日、高杉たちは総勢五十台のコンボイを組んで西サハラの国境へ向かった。一日がかりで西サハラ側の出国手続きを終え、翌朝まだ暗いうちにコンボイ集団はモロッコ軍とともに地雷原の真っ只中を走り、無事モーリタニアにはいった。
 西サハラはアスファルトで舗装されたハイウェイが走っていたが、モーリタニア側は延々と続く砂の中に岩がむき出しになったピストと呼ばれる未舗装のわだちがあるだけだ。高杉とピエールはいったん首都ヌアクショットに向かった。そこで、さらに南下してダカールに向かうピエールと別れ、高杉はひとりシンゲッティに向かった。ヌアクショットからアタールまでは四五十キロ、さらに東へ百キロほど走るとシンゲッティに着く。
 シンゲッティとは馬の泉という意味で、むかしはイスラムの最大の聖地であるメッカへ巡礼に行くための拠点として栄えた街だった。多くの巡礼者のキャラバンがここからラクダに乗ってサハラを越えたという。
 ヌアクショットを離れたとたん、あたりは草木一本生えていない、赤茶色の砂におおわれた大地に変わった。途中、街道沿いにいくつかの集落が見えた。マッチ箱のような日干し煉瓦の家が数軒ばかり、たがいに寄り添うように建っていたが、どの家もなかば砂に埋もれ、人の気配はなかった。
 以前ここに来たときは、バイクの音を聞きつけて、好奇心旺盛な子供たちがいっせいに道路に飛び出してきて、高杉はあやうく子供たちをひき殺すところだった。身なりは貧しかったが、子供たちの元気いっぱいの笑顔が強く印象に残っていた。だが目の前の集落は、どれもみな、しんと静まり返ってひとの気配はない。それは北へ行くほどひどくなった。高杉の目にもはっきりとわかるほど砂の侵食が激しい。
「こいつは、ひでえな……」
 高杉は思わずつぶやいた。その景色を見ているうちに、この先の村にはもう誰も住んでいないんじゃないかという気がしてきて不安になった。
 だからアタールの街にはいって、頭にターバンを巻いたアラブ人が通りを歩いているのを見たとき、高杉は心底ほっとした。ヌアクショットのにぎやかさとはくらべものにならないが、それでも通りに何軒かの商店と食堂兼ガソリンスタンドがある。ここは間違いなく人々の生活の場だった。
 高杉は砂の混じったガソリンを給油してもらいながら、若いアラブ人に青いミサンガの女のことを聞いてみた。とたんに、彼は恐怖に顔を引きつらせて首を横に振った。そして、彼もまた、これまで何度も聞いたせりふをつぶやいた。シンゲッティには行くな、と。それ以上は、何を聞いても無駄だった。
 
 高杉がシンゲッティに着いたのはその日の夕方だった。
 シンゲッティの街の中心部にある乾河は、かつては豊かな水をたたえていたというが、今ではすっかり乾き、幅五十メートルもある川底にはちいさな砂丘がいくつもある。シンゲッティはその乾河をへだてて、東側にある旧市街と西側にある新市街からなる。
 かつてはサハラを越えるキャラバンの重要な拠点として栄えた旧市街には、日干し煉瓦を積みあげて造ったマッチ箱のような家々に混じって、十二世紀頃書かれた古書や聖典など、五千冊を越える蔵書が保管されている図書館や美しい尖塔をもつ旧モスクが建っていた。いっぽう高台にある新市街には市場をはじめ、警察、病院、郵便局などがそろい、旅行者や巡礼者のための簡単なキャラバン宿もあって、イスラムの第七の聖地の名にふさわしく、活気に満ちた美しい街だった。
 だが今、高杉の目の前にひろがっているのは、赤茶色の砂に、なかば埋もれかけた廃墟だった。旧市街は背後に迫った幾重にも折り重なる砂丘に完全に飲み込まれ、赤茶色の砂の中に取り残されたように建つ旧モスクの尖塔が夕日に照らされ真っ赤に染まって見えた。高台にある新市街は旧市街ほどひどくはないが、それでも郵便局や病院と思われる建物が半分まで砂に埋もれたまま放置されている。
 シンゲッティの住人たちは、むかしから辛抱強く砂と戦ってきた。サハラから吹く風に運ばれてくる砂に追われるようにして、ほとんどの人々が旧市街を捨てて新市街に移ったあとも、砂と戦いながら旧市街に住み続けている人々が何人もいた。
 すくなくとも以前、高杉がこの街を訪れた時には、新市街は市場を中心に活気に満ち、キャラバン宿には巡礼に行く多くのアラブ人たちが泊まっていた。旧市街のモスクでは礼拝がおこなわれ、街に流れるコーランを聞きながら、旧市街の迷路のような狭い路地を散策していると、いきなりドアがあいて、そこの住人らしいアラブ人が現れ、びっくりしたことが何度もあった。
 ところが目の前にひろがる砂におおわれた街は、まるである日突然、侵食する砂にあらがうのを放棄してしまったかのように見えた。
 高杉は放心したように、その場に立ち尽くした。
 夕日が日干し煉瓦の家の壁を照らしながら、ゆっくりと移動してゆく。
 あの狭い路地や、砂に埋もれ、なかば崩れかけたあの家の横の小道を、あの頃は好奇心に突き動かされるまま、ただひたすら歩きまわった。足の裏に当たる小石のごつごつとした感触や、日干し煉瓦の家の中から漂うクスクスを蒸す食欲をそそる匂いが、まるで、きのうのことのようによみがえる。あの頃は孤独だと感じたことはなかった。いつも肌身離さず身につけていたミサンガが、まるでとも子の分身のように思えたからだ。
 だが十五年前のあの日――。
 高杉はシンゲッティから東へ百キロほど走ったところにある砂丘に立っていた。赤茶色の砂が地平線の向こうに沈みかけた夕日を浴びて赤く発光していた。アジアハイウェイを経てタマンラセット、アガデスを走りぬけ、やっと、このシンゲッティの東の砂漠までたどりついた。
 高杉はこの砂丘を見たとき、ここで旅を終わりにしようと思った。サハラに行くと決めたあの日から、ずっととも子と一緒に旅を続けてきた。もうじゅうぶんに走った。もうそろそろ、とも子を静かに眠らせてやりたかった。
 高杉はそっと色褪せたミサンガをはずした。
 そして、かぎりない愛しさをこめて、つぶやいた。
「おまえは、ずっと、サハラに憧れてたよな。ここが、おまえの愛したサハラだよ……だから、ここでお別れだ。おまえの憧れていたこの場所で、永遠に眠りな」
 高杉はそう言って、砂のかなたへ思いっきりミサンガを投げた。
 あの日を境に高杉はずっとひとりで生きてきた。悲しいとも、寂しいとも感じたことはなかった。
 高杉はその場にしゃがみこむと、赤茶色の砂を指先ですくった。細かな砂は手の上でひろがり、指の間からさらさらとこぼれ落ちた。
 ふいに高杉はこぶしを強く握りしめた。胸の奥から、怒りとも悲しみともつかない激しい感情がこみ上げた。
「――ばかやろう……!」
 涙があふれた。
 かたく握りしめたこぶしで、高杉は何度も何度も地面を叩いた。
 なかば崩れかけて砂に埋もれた街が、ただひとり取り残された自分の姿と重なった。とも子はもういない。この無人の砂漠にいるのは自分だけなのだ、という事実を高杉はいまさらながら思い知らされた。
「おれは……おれは、何も納得しちゃいねえよ……!」
 とも子に会いたかった。だがどんなに叫んでも答えるものはいない。ただ高杉を見おろすように、夕日に照らされた街が音もなくたたずんでいた。
  
 その夜、高杉はシンゲッティの街はずれのモスクのそばでキャンプすることにした。燃料にする薪は、ちょっと市街を歩けばいくらでも手にはいった。すっかり日が沈むと、満天の星空になった。
 高杉は砂の上にシートをひろげると、その上にごろりと横になった。
 いつのまにか、モスクの尖塔の向こうに、冴え冴えと輝く青白い月が昇っていた。月明かりに照らされて、幾重にも折り重なる砂丘が黒く浮き上がって見えた。あたりはしんと静まり返り、足元の焚き火が燃える音以外は何も聞こえない。
 地面からゆるゆると立ち上る冷気につつまれながら、高杉はふと、ダクラでピエールに言われた言葉を思い出した。
「こだわってる……か」
 悔しいがピエールの言うとおりだ。とも子は死んだという事実を確かめるためだけに、わざわざサハラまでやってきたわけじゃない。たとえ亡者だろうと、もしもとも子がこの世にまだ存在するのなら、ひと目だけでもいいから会いたかった。
――とも子、おまえは今もまだ、このサハラのどこかにいるのか?
 高杉は星空を見上げた。
 半径百キロ以内に、間違いなく高杉以外の人間はいない。そこにあるのは、天と地だけだ。乾いた砂の上に寝転がって降るような星空を眺めていると、自分もこの荒涼とした大地の一部なのだという気がした。まるで、生まれたときからずっとこうして星空を眺めていたような錯覚をおぼえて、高杉はちいさく笑った。
 ……とも子。
 すぐそばで、とも子がくすくすっと笑ったような気がした。
 遥かな時を隔てた地中の奥深くで、無数のバクテリアがうごめいていた。怒りや悲しみ、志半ばで死んでいった人々の無念の思い――地下に縛りつけられた、幾千、幾億の魂魄が寄り集まって、気の遠くなるような時間をかけて最初のアミノ酸を作り出した。最初のひとつができると、あとは早かった。いくつものアミノ酸がねじれながら寄り集まり、新しいたんぱく質を次々と作り出してゆく。ちいさな魂は夢うつつでかれらの所業を感じていた。遥かかなたから聞こえてくる、なつかしいひとの、愛の言葉を聞きながら……。

4 thoughts on “サハラ・レクイエム 3”

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    はじめまして。キョーコさん。 ネットサーフィンの途中、 もともと興味のあった古代の事や時事的な内容に惹かれ 何日か前から読ませて頂いています。 他の様々な事も、フラットで冷静にわかりやすく 書かれていると感じました。 この小説もワクワクしながら読ませて頂いています。 6/20の「警告 黒龍結界」も衝撃的でした。 京都に在住しておりますので今日の五山の送り火には 何かあるのでは・・・と思いつつ、先日、地元の愛宕山を見た時 神々しい感覚を覚え、今ある日常に守られている事に感謝せずにいられませんでした。 そして、今日その山にも鳥居の形をした送り火が灯ります。 何日か前に私自身のブログに龍のイメージを絵にしてみました。 よろしければご覧下さいませ。 これからも頑張って下さい☆

  2. SECRET: 0
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    ゆきんこさん はじめまして。 コメントありがとうございます。 >何かあるのでは・・・と思いつつ、先日、地元の愛宕山を見た時 神々しい感覚を覚え、今ある日常に守られている事に感謝せずにいられませんでした。 はい。そう思います。 昼間のペルーM7.9の影響で深夜津波が日本に到達するみたいですが、数センチとの予報。やはり守られているのでしょう。。。。感謝ですね。 龍のイラスト、拝見いたしました。 その迫力にびっくりです。 またイラストを描いたら教えてくださいね。

  3. SECRET: 0
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    大〉 五芒星じゃないでしょうか。テレビで映っているのを見てそう感じました。場ができてるよう伝わりました。京都はすごいですね(。。;)。 ともこちゃん、感情移入して読んでしまってます。 つづき待つ!(ノ><)ノハ、ハヤク~

  4. SECRET: 0
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    め☆ちゃん いつもありがとう。 週末は一泊で八ヶ岳ですが、物語のほうは予約更新でアップされるのでよろしくです。 >五芒星じゃないでしょうか。 ビンゴです。鋭いね。

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