サハラ・レクイエム 2

 というわけで『サハラ・レクイエム』第二弾のお届けです。
 

『サハラ・レクイエム 2 』
 

 2 ミサンガの少女
  高杉が水瀬とも子と出会ったのは高二の夏休みだった。その頃の高杉は近隣の暴走族仲間とバイクを乗り回しては、敵対するグループとの抗争に明け暮れていた。
 

 その日は日曜日だった。
 いつものように深夜の国道を走りまわり、ようやく仲間と別れた頃には、すでに東の空が白みはじめていた。明け方の気の抜けた街を走りぬけ、近くを流れる相模川の土手にごろりと横になると急速に眠気が襲ってきた。朝露にぬれた夏草の青臭い匂いを鼻先に感じながら、高杉はいつのまにか眠り込んでしまった。
 

 それからどのぐらいたっただろう。ふと目を覚ますと、大きな瞳が、高杉の顔をじっと覗きこんでいた。高杉の顔に野生動物を思わせる鋭い表情が浮かんだが、次の瞬間、それは驚きに変わった。
 

 高杉は、わっと叫んで、起き上がった。
 目の前に、若い女がびっくりしたような顔をしてすわっていた。
 それが、とも子だった。
 本能的に彼女が敵でないということはすぐにわかったが、とっさのことで高杉は事態が飲み込めなかった。
 とも子のほうも高杉の反応は予想外だったらしく、草の上にすわりこんだまま、息をとめて高杉を見つめている。
 ふたりの視線が交差した。
 

 高杉はようやく口をひらいた。
「おまえ、誰だよ?」
 すぐ下の川原でサッカーボールを蹴飛ばす音に混じって、子供たちの明るい笑い声が聞こえてくる。
 

(ああ……そうか)
 ゆうべは敵対グループに喧嘩を売られて買ったところまではよかったが、そのあと警察に追いかけまわされて一晩中お祭り騒ぎだった。ようやく解放された頃にはすでに空が白みはじめていたが、疲れているはずなのに頭の中が妙に冴えてハイのままだった。高杉はまっすぐ家に帰る気になれず、気がついたら相模川の土手に来ていた。草むらにすわって、微妙に変わってゆく空の色や、それにともなってすこしずつ目覚めてゆく、対岸のごちゃごちゃした街のようすを眺めているうちに、知らぬ間に眠ってしまったらしい。
 


 いつのまにか、すっかり日が高くなっていた。
 長袖の黒い特攻服の下に着たランニングの背中がすっかり汗で湿っていた。高杉は額にかかった赤い前髪をうっとうしそうにかきあげると、無遠慮な視線でとも子を眺めた。
 

 白いTシャツにジョギングパンツ、肩のあたりでぷつんと切りそろえた栗色の髪が日に焼けた小麦色の肌によく似合う。頬のあたりにどこかあどけなさが残る顔立ちと、思いがけず艶やかな黒い瞳が、よりいっそう彼女の印象を際立たせているように見えた。
 

 ふいに、とも子の瞳にほっとしたような笑みが浮かんだ。
「よかった。死んでるのかと思った」
「え……?」
 予想外の言葉だった。高杉はとっさに言葉がみつからなくて、ただ目をまるくしたままとも子の穏やかな顔を見つめた。
「ごめんね。起こすつもりじゃなかったの」
 とも子は動じるようすもなく、そう言って立ち上がった。
 その瞬間、青いジョギングパンツからすっと伸びた、小麦色のなめらかな太ももに高杉は目を奪われた。
 

「またね。高杉くん」
 とも子はそう言って、くるりと背を向けると、膝まである背の高い夏草の生い茂る土手を登りはじめた。
「おい、待てよ」
 高杉はあわてた。
「なに?」
 とも子がくるりと振り向いた。
「あのさ、おまえ、何でおれの名前知ってるわけ?」
 とも子はびっくりしたように高杉を見つめた。
「だって、高杉くん、同じクラスじゃない」
「え……」
 

 高杉は虚をつかれたように、一瞬言葉を失った。
 落第してもういちど二年生をやり直すはめになった高杉には、去年まで下級生だった奴らと同じクラスになるということが、想像していた以上に苦痛だった。だから高杉は新学期になってからほとんど教室に顔をだしていなかった。そんなわけで、とも子が同じクラスだなんてまったく気づかなかった。
 高杉の顔がよほど狼狽したように見えたのか、とも子はにっこりと笑った。
 

「いいよ。気にしないで」
 高杉はバツが悪そうに頭をかいた。
「おまえさ、こんな朝早くから、何やってるわけ? 部活……のわけねえよな」
「ジョギング」
「そりゃ、見りゃわかるけどよ」
 高杉はなんとなく、このまま別れるのは惜しい気がして、言葉を捜すように視線をさまよわせた。
 とも子はふと、土手の上に止めてあるバイクに目をやった。
「あれ、高杉くんの?」
「え? ああ」
 先輩から譲り受けた四〇〇CCのロードバイクは年式も古かったし、マフラーを集合管に付け替えてハンドルもセパレートハンドルにしてあったが、高杉にとっては命の次に大切なバイクだった。
 

 とも子は土手を登ると、あらためてきれいに磨かれた緑色のタンクを眺めた。
「ふうん。いいなあ」
 とも子はうらやましそうにそう言った。
(へぇ……)
 高杉はちょっと驚いたように、とも子の横顔を眺めた。どちらかというと、とも子は熱心に部活に打ち込んでいるタイプのおとなしそうな女生徒に見えたからだ。
 

「バイク、興味あんのかよ」
 とたんに、とも子は目を輝かせた。
「うん。まだ、免許も持ってないんだけど。でもね、バイト代がもうすぐ貯まるの。そしたら、すぐに教習所に行くって決めてるの」
 

「へえ……」
 高杉は目をまるくした。
 バイクに乗っているツッパッた女なら何人も知っているが、白いTシャツから伸びたとも子の華奢な腕は、どう見ても重たいバイクを振り回すだけの筋力があるようには見えなかった。もちろん、高杉の知っている女たちだって、筋肉隆々というわけではない。ただ、とも子はあきらかに彼女たちとは違う匂いがする。理由はわからないが、彼女を見ていると、なんとなく守ってやりたいという気持ちになってしまう。高杉は自分の中の微妙な変化に戸惑いながらぶっきらぼうに言った。
 

「バイクって重たいんだぜ」
「知ってる。でも、どうしても乗りたいの」
 そう言って、とも子ははにかんだような表情をみせた。
「海の向こうを、走ってみたいの」
 

 高杉の頭の中に、以前映画か何かで観たシーンが浮かんだ。アメリカの西部劇に出てくるような、何もない荒野の真ん中をまっすぐ伸びるハイウェイをハーレーが走ってゆく姿だ。どう考えても、とも子には似合わないなと思いながら尋ねた。
 

「どこを?」
「――サハラ砂漠」
 

 高杉は目をまるくした。
「サハラ砂漠って……たしかアフリカにある、すごく広い砂漠だったよな」
 高杉にはアフリカ、ましてサハラ砂漠なんてあまりにも遠すぎて、ラクダと砂丘ぐらいしかイメージがわかなかった。
 

 とも子は赤茶色の砂におおわれたサハラの熱い大地に思いを馳せるように、瞳を輝かせてうなずいた。
「うん、世界最大の砂漠。でも、ずっとむかしはヤギや牛が住む豊かな草原だったんだって。今では、乾いた砂と、干乾びた岩だらけの大地なのにね」
 

 高杉は不思議な気がした。
「ふうん。そこは何もない砂漠なんだろ?」
「うん」
「なんで、そんなとこに行きたいんだ?」
 

 とも子はちょっとびっくりしたように高杉を見つめた。それから、ゆっくりと考えながら言った。
「なんでかな。子供の頃からずっと、地平線に憧れてたの。走っても走っても、何もない、誰もいない、岩と砂だらけの大地。真っ青な空と、音もなく、静まり返った赤茶色の砂がどこまでも続く灼熱の大地。昼間は五十度近くにもなる強烈な陽射しと乾いた風を、じかに体で感じてみたいの。剥き出しの自然と対峙した時、自分がどう感じるかなんて、想像もつかない。でも……きっと、自分の常識なんてまるっきり通用しないだろうなって思うの。でね、夜になると気温が氷点下近くまでさがるの。砂の上に寝ころがって、満天の星空を眺めたら、どんな気分なんだろうって、いつもバイトの帰り道、空を見上げて考えるの。このあたりの空は、いつも灰色で星も見えないけど。きっとサハラには、さわれば落ちてきそうなほど、星がいっぱいあるんだろうなって思うと、すごく不思議な気持ちになるの」
 

「なんでだよ?」
 高杉は不思議そうに聞いた。
「だって、同じ地球じゃない?」
「え……?」
 

 そんなこと、考えてみたこともなかった。高杉にとって、世界というのは自分のごく身近な友達とか仲間とか、自分が手を触れることのできる範囲でしか存在していなかった。だからテレビで外国のニュースを見ても、実感もないし何の興味もわかなかった。それは自然に対しても同じだ。行ったことのない海外の海や山の映像を見ても、それはただの映像以上の意味をもたなかった。だが頬を上気させ、熱っぽくサハラ砂漠のことを話すとも子を見ていると、なんだか高杉まで引き込まれてしまう。
 

「むかしから、ラクダに乗って砂漠を旅する遊牧民たちのキャラバンは、星を頼りに旅をしてきたの。塩とか金とか、さまざまな商品をラクダの背に乗せて、サハラの西から東へ何十日もかけて旅をするの。……考えただけで、わくわくしてこない?」
 

とも子の熱をもった、きらめくような瞳が高杉を真っ向から見つめた。思わず高杉は息をとめた。胸がわけもなく熱くなって、高杉はとも子の瞳から目が離せなくなってしまった。
 

「高杉くん?」
「え……」
 高杉はあわててとも子から視線を引き剥がした。土手一面に生えている背の高い夏草の青臭い匂いがぷうんと鼻をつく。高杉は黙って足もとに目を落とした。とも子のスニーカーの白さがまぶしく見えた。
 

「……なんでバイクなんだ? ただサハラに行きたいだけなら、もっと安全なツアーとか、車とかあるだろ」
「子供の頃ね、よくお父さんにバイクの後ろに乗せてもらったの。はじめてバイクの後ろに乗った時、なんていうか、すごく印象が強かった。耳元で風が鳴って、景色がどんどん後ろに動いていくのが、うまく言葉にできないんだけど、どうしようもないくらいわくわくしたの。あの時、おとなになったら、絶対自分でバイクを運転してみたいって思ったの」
 

 とも子ははにかんだように、頬を染めた。
「へえ……。いい親父じゃんか。今は、乗せてもらわないのかよ?」
 一瞬、とも子の黒い瞳がなんともいえぬ表情を浮かべて高杉をとらえたが、ふいに彼女はすっと視線をそらせた。
「うん……わたしが、まだ小学校の頃、病気で死んじゃったんだ」
 

 高杉は心の中で、あっと思った。高杉の母親も彼が中学二年の時に亡くなっていたからだ。……おれと同じか。いや、そうじゃねえな。おれよりまだガキの頃か。高杉は胸の奥にかすかな痛みを感じた。だがそんな打ち明け話をするのはひどく安っぽいような気がして、高杉はわざとぶっきらぼうに言った。
 

「だから、バイクでサハラなのかよ」
「うん。それに、高杉くん笑うかもしれないけど……」
 とも子は話そうか、どうしようか、迷っているようにうつむいた。
「なんだよ?」
 高杉は話してみろよというように、とも子を見た。
 とも子は決心したように言った。
「うん……。サハラは何もない大地だって言ったでしょう? でもね、ときどき夢を見るの」
 

「夢?」
「うん」
 まるで大切なものを慈しむように、とも子の瞳にかぎりなく優しい光が浮かんだ。
「……みずみずしい緑におおわれたサハラに、命がいっぱいあふれている夢」
 心臓が、どきんと高鳴った。ふいに言葉にできない感情が胸の奥からこみ上げてきて、高杉は息をのんだまま、とも子のやわらかな横顔を見つめた。
 

「高杉くん?」
 とも子は高杉の視線に気づいて、不思議そうな瞳で高杉を見つめた。
 高杉は頬が赤くなるのを感じて内心うろたえた。
「お……おまえって、へんな奴だな」
「そうかな」
 

 ふと高杉はとも子の左手に、濃い青の紐を幾重にも編んだ腕輪のようなものが結んであるのに気がついた。
「なんだよ。それ?」
 とも子は高杉の視線に気づくと手をあげた。
「これは、ミサンガっていうの」
「ミサンガ?」
 はじめて聞く名前だった。
「うん。いつかきっと夢が叶いますようにっていうおまじない」
「ふうん」
 
 
 
 その一件があってから、高杉はとも子の顔が見たくて、まじめに授業にでることが多くなった。とも子のほうも、これまで肉親以外に話したことのなかったサハラへの思いを話したことで、高杉に親近感をもったらしく、学校で顔を合わせると彼女のほうから話しかけてくるようになった。ふたりの仲が近づいたのはごく自然な成り行きだった。
 

 とも子はサハラ行きの資金を貯めるために、学校が終わると近所のコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。だから学校が終わってとも子がアルバイトに行くまでの、ほんの一時間かそこいらの間、高杉はとも子を誘って、よく近くの港に船を見に行った。そんなとき、港に隣接する公園のベンチにすわってサハラの話をすることが多かった。
 

「やっぱり、問題は言葉よね」
 とも子のセーラー服は夏服から紺色の冬服に変わっていたが、胸元の青いリボンがよく似合った。
 

「おれさ、英語なんてしゃべれないぜ」
「だいじょうぶ。あっちでは英語はほとんど通じないの」
「じゃ、どうすんだよ」
 とも子はいたずらっぽく笑うと、かばんからポケットサイズの薄い本を取り出した。
「旅行者のためのフランス語入門?」
「そ、サハラに隣接する国は、フランスの植民地だった国がほとんどだから、フランス語ができればなんとかなるのよ」
 高杉は気が遠くなった。
「今からこれを覚えろってのか?」
「だいじょうぶよ。ほら、たとえばね」
 とも子はそう言ってパラパラとページをめくった。
「ありがとうはメルシィ」
「メルシィ?」
「そう。元気ですかは、サヴァ?」
「サヴァ?」
「いけるじゃない。じゃあ……」
「愛してる、は?」
 

 とも子の瞳がびっくりしたように高杉を見つめた。
 本気とも冗談ともつかずそう言ってから高杉は後悔した。
 もし、とも子に拒絶されたら――そう思うと急に怖くなったのだ。高杉はあわてて、次の言葉をさがした。
 あ、いまのは、ほんのジョークだから――高杉がそう言いかけた時だった。
 

 ふいに、とも子の表情が花が咲いたように柔らかくなった。
 思わず、高杉は息をとめた。心臓が、どっくん、どっくんと音をたてた。言葉にならない感情が胸の奥からこみ上げた。黄色く色づいた銀杏の葉が風に吹かれて、かさかさと音を立てながら石畳の上をころがっていく。
 

「おれ……」
 高杉の手がかすかに震えた。
 とも子はつややかな瞳で高杉をじっと見つめたまま、ささやいた。
「……ジュテーム」
とも子の手から、旅行者のためのフランス語入門がすべり落ちた。
 

 いつのまにか、とも子の夢と高杉の未来が重なった。落ちこぼれの不良だった高杉は未来の可能性など信じたことはなかった。将来を思い描くとき、先輩の働いている暴力団事務所でこき使われながら、ただ漠然と年をとってゆく自分の姿ぐらいしか思い浮かばなかった。度胸のよさを買われて鉄砲玉ぐらいの仕事はさせてもらえるかもしれないが、どちらにしてもあまり楽しい人生ではないことだけは確かだった。だが高杉はとも子と出会ってから、もしかしたらそれ以外の、別の生きかたもあるのかも知れないと思いはじめていた。すでにとも子と出会ってから一年が過ぎようとしていた。
 そんな矢先のことだった。
 

 とも子が死んだ。
 アルバイトに行く途中、居眠り運転のトラックにはねられ、自転車ごと海に落ちたのだ。その話を聞いたとき、高杉はとも子の死をどうしても信じることができなかった。だから葬式にも出なかった。 
 

 それからちょうど一ヶ月も過ぎた頃、とも子の母親がたずねてきた。
 高杉はわざとぺったんこに潰した通学かばんをわきにかかえたまま、戸惑ったように無言でその場に突っ立っていた。初夏の思いがけぬほど強い陽射しが容赦なく頭上からふりそそぎ、首筋のあたりをじりじりと焼いた。
 彼女はぺこりと高杉に頭をさげると静かな声で言った。
 

「とも子はいつも、高杉さんのことを話していました」
 とも子の母親はまだ若いと聞いていたが、はじめて見る彼女はひとり娘を失った悲しみからか、頭に白いものが混じり、ひどく年をとっているようにみえた。
「サハラ砂漠は、あの子の、子供の頃からの夢でした」
 彼女はそう言って、バックからちいさな包みを取り出すと、丁寧にそれを開いた。中から出てきたのは、青い紐を寄り合わせて作ったミサンガだった。
「これは……とも子の……」
 彼女は静かにうなずいた。
 

「はじめてサハラの話をまじめに聞いてくれる人に会った。いつか一緒に行けたらいいなあって……。あの子はいつもそう言っていました。だから、ただひとり、あの子の夢を理解してくれた高杉さんに持っていてもらえば、あの子も、きっと喜びます。これは……あの子の、夢そのものでしたから……」
 高杉は黙ってミサンガを受け取った。手のひらに乗せた、ちいさなミサンガから、かすかなぬくもりがつたわってくる。
 

 ――とも子……
 

 高杉は抱きしめるように、そっとミサンガを握り締めた。
 ふいに涙がこぼれた。
 とも子が死んでから、高杉ははじめて泣いた。
 そして、その日から高杉にとって、本当のサハラへの旅が始まった。
 

◆サハラ・レクイエム・シリーズ◆
サハラ・レクイエム 1
サハラ・レクイエム 2
サハラ・レクイエム 3
サハラ・レクイエム 4
サハラ・レクイエム 5

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